「言葉なんて口先だけ」

信じられないなんて、言いはじめたらキリがない。
僕たちが伝え合い、知りうることの不確かさは、ただの「当たり前」、前提だ。
自分の言葉どおりにいつも生きられているかどうかはわからないけれど、それでも口にする言葉の普遍性に賭けて、僕らはまた言葉を吐く。
誰かの言葉を信じるってことは、結局あやふやな「賭け」でしかない。だから人は本気で書き、また読み感じるとることに真面目になるってものだろう。


自ら言葉を使う者が、鬼の首を獲ったようにその限界を言い、それよって他を貶め得たつもりで、自分はそこから免れていると考えたとしたら、それはとても浅はかで傲慢なことじゃないだろうか?