先日、「en-taxi」の坪内祐三氏の連載を読んでいて、

そこで引かれていたディヴィッド・リースマンの「孤独な群集」の話が興味深かった。
人間の社会性と人格形成の在り方を、


①過去何世紀にもわたってせいぜいほんの少ししか修正を受けずに続いてきた行動様式を理解し、それに満足することを学びとる「伝統指向型」。


②高度成長への「過渡的成長」の時代に生まれる、幼少期に年長者の影響で据えつけられた道徳観によって動き、それを現実の中で一般化しようとしていく「内部指向型」。


③高度資本主義社会に特有な、同時代の他者に常に細心の注意を向け、変わり続けていくこと自体をはじめから指針として人格形成した「他人指向型」。


の3タイプに分け、「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン少年を、「他人志向型」社会で生きる「内部指向型」人間と位置づけるリースマンの分析を受けて、高度成長と情報消費社会化を経てこの構造が日本でも理解されることになったことによる「ライ麦」の訳の変化の必然性が指摘されていたのだけれど、まさにこれ、Jポップ批評で僕が尾崎豊について考えていたこととそのままかぶる。
彼も、「伝統指向型」の影響を強く受けた「内部指向型」人間であり、その作品は、「仲間から外れない」ことに最大の価値を置く「他人指向型」人間の社会の中で、「正直さ」に価値を置く「内部指向型」人間が感じた反発と混乱の軌跡に他ならないから。
(宝泉さんが書かれていた「85年革命」の話もまさにこれで、興味深かった)


こう考えていくと、例えば紡木たくの在り方は、尾崎と似ているようで微妙に違っていることがはっきりしてくる。彼女の場合は、「他人指向型」の周囲に違和感持ちながら育ち、まだ残滓の残る「伝統指向型」人間やその社会に惹かれ、傾斜していった「内部指向型」の人、という感じが強い。だから、徐々にサブカル的、現代的評価からは脱落していったことも、当然だったというか。尾崎も、もしそういう方向で生きられたなら、そうできた方が少なくとも彼個人の資質には向いていたし、幸せだったんだろうなと思う。
(あと、坪内氏は内部指向型人間の日本での典型に、オタク第一世代のモノマニアックなメンタリティを挙げていたけど、彼等のディティールへの執着のループによって内面が消失、あるいはフリーズドライされている状態というのは、自分を当て嵌めつつ僕が想像した「内部指向型」人間とまた大きく違う。だから、この3類型は当然ながらひとつの尺度であって、資質や状況によって、相互の関係の中でグレーゾーンを持ちながらいろんなふうに分かれていくのが現実だと思う)


こう考えて自分の身の上を思うと、またちょっと複雑だったりもするんだが、一方、例えば上のおっちゃんたちの状況っていうのは、自分独自に者を考えたり判断したりって習慣や訓練がなかった「伝統指向型」の人達が見失った状態と言えるのだろうし、なかなか難しい。
そして、だからこそ、もう少しここで踏ん張って、頑張って考えていかなきゃな、とも思う。