河出ムック 武田百合子 面白い。

bakuhatugoro2004-03-02

読み終えてしまうのを惜しむように、少しずつ、ゆっくりじっくり読んでます。


百合子さんの書く文章は、あれこれ批評を加えたり、感想を言ったりするのが野暮で、ただただ面白がり、感心し、楽しく意表を突かれたい、誰かとそれを分かち合うにしても、「ほらほら、ここ! ここスゴイよね」ってふうに指差し合うだけで事足りてしまう、というのが、大方の愛読者に共有されている感覚だと思う。


だから、僕自身、浮世のもろもろのこだわりで凝りまくった肩をほぐす絶妙、極上のマッサージのように、百合子さんの文章とエピソードを、無心に浴びまくりたいと思うのだけれど、こうした特集を読んでいると、どうしても毎度、ある種のイヤラシサに引っかかってしまう。
勿論、半分は、そんなものが必要以上に気になってしまう、こちらの性質の問題なんだけれども、そうした性質をどうにももてあましながら生きてるからこそ、百合子さんの文章に触れることをかけがえなく思ってるわけで、そうすると、せっかくの貴重なひとときに水を差されてるようで、「イヤラシイ」雑音が、尚更邪魔になって仕方ないわけだ。


例えば、川上弘美堀江敏幸といった人達は、現在の読書界では、百合子さんを愛読するような界隈の「顔」のような方々であるらしく、今回も揃って登場されているんだが、僕からすれば、彼等(の文章や雰囲気から受ける)の印象は、百合子さんから受け取る、自由さや、おおらかさ、風通しの良い意外性といったものとは、まったく真逆のもの。
むしろ、自分の都合で世界をパッケージし、都合の悪いものを隠然と排除するような窮屈さ、息苦しさ、せこさを感じる。


例えば、堀江氏は今回寄せた文章の中で

ただし、彼女が十三歳年上の泰淳に「見出され」、「育てられた」といった見方 (色川武大)は、いくらか公正を欠いている。泰淳のほうが妻に庇護され、甘やかされ、要するに「育てられていた」と切り返し可能なのは誰の目にも明らかだし、仙人風の小説家とのむすびつきは不思議でもなんでもない、『富士日記』に眼を通せば宿命というほかないほど強靭なものだから。

と書く。
後段については、僕もまったく異論ない。
けれど、では色川武大は、堀江さんの引いた『あたたかく深い品格』(『ばれてもともと』文藝春秋 所収)の中で、彼が印象づけるような、泰淳を百合子さんの上に置くような書き方を本当にしていただろうか?
百合子さんの、圧倒的な生理の強さや、そこからくるブレないバランス感や、直感のにごらない直裁さは素晴らしいし、思考に沈潜してとりとめなくなってしまいがちな泰淳が、そこから大きなものを得、依存していたことは、彼等の読者なら誰でも肌で感じていることだろう。
泰淳が生活においてはまったくの無能力者だということも、両者の文章によって明らかだし、百合子さんに甘え、頼りっぱなしだったことも確かだ。
けれど一方で、百合子さんが、彼女とはまったく違う泰淳の資質によって許されていることによって、自由になることができていたこともまた、確かな事実なんじゃないのか。
というか、この2人について、どっちがよりどっちを、なんてことを問題にすること自体野暮で、お互いのでこぼこが絶妙に噛み合い、大切に愛しあっていたってことに尽きるんじゃないか。


このこと自体については、きっと堀江さんも普通に同意してくれることだろうとも思う。
では、どうして敢えてこうした文章を、彼は書く必要があったのか。


僕が今回、彼の文章に強く引っかかったのは、以前読んだ『ユリイカ増刊 田中小実昌の世界』に収録されていた、池内紀氏との対談、特に以下の部分に対して感じた違和感と繋がるものを直感したからだ。

古山高麗雄なんかもそういう地獄を見た人だと思うんですけど、この間の『フーコン戦記』のように、結局語れれなかった人たちのことを語り継ぐという使命感がその文章の背後にある。ところが、田中小実昌には、そうした重さを超越しているようなところがある。日本文学の系譜を飛び越したところにいる。

僕も、現実に大袈裟に構えず、即物的にしれっと受け流すような生理の強さや、こなれたわがままさは大好きだし、凄い個性だと思う。
けれど、コミさんが、古山さん的なものを「超越」していたとは、まったく思わない。


同じ状況の中にいても、ある性質を持った者についてはそれが文字どおりの生き地獄として意識され、記憶されても、別の性質の者にとっては、そうまんざらでもない体験であったりすることは、良くある話だ。それが、戦争や軍隊であれ、校内暴力やいじめの現場であれ、バブルであれ、不況であれ。
コミさんも、古山さんも、それぞれの場所から、それぞれの視点と実感を綴っているに過ぎない。
さらに言えば、内省に内省を重ねることによって、自分の感じ方をどんどん相対化し、自分にとって都合のいい物語(や無意識にそれに添った感性)を、とことん相対化していってしまうところに、古山さんの文学の凄さ、怖さがある。


堀江さんは「日本文学の典型」といった言い方をよくするけれど、僕は彼のこうした括りや、彼が「優れているもの」として選ぶものの「並び」に、むしろ凄くベタな典型を感じる。
要するに、「フットワークの軽さ、感覚の自由さ、そこから来るセンスの良さ」ってことだよね。
そういったものの価値を、僕は否定しない。
けれど、現在、この状況の中で、そうした「感覚的で気持ちのいいもの」を選び取り、それだけを特化して祭り上げることでセンスを誇るっていうのは、意表を突く発見であるどころか、それこそ、安全圏からの鑑賞者、消費者の視点そのものであり、それに対する相対化の視点がないことによって、思いっきりベタで図式的、彼が口先では嫌う「イデオロギー」、「反物語」という物語そのものだと思う。


考えることよりも、感じる事が大切だ、なんて言い方はそれこそバカバカしい。
どちらも大切なことであるのは、当たり前のことなのだから。
ブルース・リー御大をバカバカしいって言ってるんじゃないよ。
こうした言葉は、誰が、どういう場面で誰に向かって言っているかが、意味や説得力を決めると思う。
そして堀江さんの場合、現在の(百合子さんをことさら持ち上げたがるような)読書層に向かってこうしたことを口にし、ポーズを取ることに、「公正を巧みに装う最悪の不公正」という詐欺があると言ってるわけだ。


現在において、「感覚的な面白さ」を珍重する事よりも、「使命感によって」なにかを書き残そうとするような姿勢の文学が存在するという事の方が、余程希少で、だからこそ光の当てられるべきことであるのは当然じゃないか?と僕は思う。


『日々雑記』において、『砂の器』を観た百合子さんは、まさにベタに感動し涙を流す観客達のディティールを即物的に愉しく描写する一方で、「不思議な映画だ。何度でも観られる」と言い、存分に泣く観客達に「うんうん」と肯く。
堀江さんたちに、決定的に欠けているのは、この奥行きなのだと思う。