続 歴史と経済の方へ

この娯楽の潤沢な世の中で、何が悲しくて社会だの、政治だの、野暮なことに、必要以上に関心持たなきゃならないのか?
これは、ほとんどの人の素直な実感だと思う。俺もそれは自然な、無理もないことだと思う。
けれどじゃあ、これでいいと思ってるかというと、違うんだな。


それは、もっと政治や社会に意識的になれとか、社会正義に目覚めろとか、そういうことじゃないんだ。
むしろ、むやみに何にでも意見をはっきり持っておくべき、なんて思い込みの方がおかしいし、危ないと思う。
そして、本当に気付かなきゃならないことは、「良くも悪くも、自分はここでこうやって生きているこういう人間なんだから、こういう立場に立つしかない」とか「ここからここまでは自分の問題、ここからは自分の手に余る」というリアリティを実感的に積み重ねるための場やプロセスが持てないまま、「自分の感性」にしか根拠がなくなりそこに視野が閉じてしまっていたり、逆にだからこそいきなり社会的な善悪を考えたりしてしまうような極端さに、歯止めをかけるべき「想像力の根」から、俺たちが知らず知らずに断ち切れているってことなんだ。


今にはじまったことじゃなく、昔から「社交の場に、政治と宗教の話は持ち込まない」なんてことは、エチケットであり、常識だった。
ただ、これはそれぞれが社会や政治に無関心ということじゃなく、逆に、自分が生きていくために属している村なり職場なり、生きていく上での立場と、政治的な立場というのがそのまま密着していて、表に出して云々しはじめるとそれこそ洒落にならないようなことだったからなんだ。
(例えば、中小の町工場で製造業に従事してきたオヤジさんが、小泉改革に反対するのは自然なことであるだろうように)


ここが実は、個々人が持つ願望や不満と、マスコミで云々されている政治的な論議が地続きに感じられない現代と、似てるようで全く違っているところなんだね。
自分が属する社会の単位が、国にしろ産業にしろ、抽象的で流動的な、漠然と大きなものになってしまっているんだ。
そもそも社会というのは、一人では生きのびられない人間が生き残るため、それぞれの利害や保身を共有する単位だった。
そして、それを調停する行為を政治と呼んだわけだけれど、その基本がなかなか自分のこととして実感しにくいというのが今の状態だと思う。


何故、そうなっていったのか?
つまり実態的な共同体がなくなることによって、みんながイメージを買う消費者になってしまったということなんだけれど。


みんなが貧しかった時代には、みんなが生延びるための共同体の意味やリアリティが自覚しやすかった。
畑仕事のために、家族や村で結束して、力を合わせること。
みんなで工場の賃金や労働条件を守るために力を合わせること。


例えばかつて、社会党という野党があった。
これが、農村共同体、家共同体を支持基盤としていた自民党に対する、最大野党だったわけだけど、第二次産業、つまり製造業に従事する人達の労働組合が、その支持母体になっていた。
それは、社会主義なんて思想、理念以前に、個々では立場の弱い労働者全体の賃上げとか、労働条件とか、具体的に共有する目標を持った共同体だった。
老いも若きも、使えるヤツも使えないヤツもひっくるめて、でっかい家族のように、まず最初に、共有する利害と保身というリアリティがあった。


産業、経済の在り方と、人間のコミュニティの在り方、そしてその中にいる人の意識や考え方っていうのは、実はそのままセットになっているんだね。
ただ、かつてはそれがあまりにも当たり前のことだった。
どんな職業を選んでどんな場所で生きるかということによって、その人の視界とか考え方というのは大きく左右されるし、制限されるということがあまりにも当たり前すぎて、意識して自覚されることが無かった。
そこに属することが、雑多な世代、性格の人間を知り、その中での自分の位置を知ることであり、また外向けにはそのまま彼等のアイデンティティたりえていたから。


ところが、みんなが豊かになっちゃうと、横一列の貧乏による共同関係というのが成り立たなくなっていく。
そして、社会が豊かになり賃金=人件費が上がると、会社は賃金の安い国に労働力を求めるようになっていく。
こうして、第二次産業、製造業は没落し、空洞化して、世の中は第三次、四次産業偏重の社会になっていく。
農村、工場といった、実体のあるコミュニティと分業のリアリティを実感させていた場が、解体されていく。
(加えて現在、終身雇用を前提とする会社というコミュニティの瓦解。そして前回紹介したような、派遣社員に頼り、流動的でバラバラ故に固まって立場を作れない彼等から搾取するような構造も生まれる)


そして人々は、「消費者」であることにアイデンティティを置くようになる。
第三次、四次産業偏重の社会とは、共同体の縛りを捨てて解放された人々に、「イメージ」というアイデンティティを売る社会。
個々の差異を煽ることで消費を拡大し、産業を回していく社会のことなんだな。


そして、かつてなし崩しの資本主義への対抗勢力だったはずの社会党社民党は、そのままこの流れに乗ってしまったんだな。
「女性問題」など、抽象的な弱者のイメージを利用することで、下部構造を失った状況を繕おうとした挙げ句、自分達の思想や運動自体を守ること、「弱者であること」「正義であること」のみを目的化し、特化するというエゴイズムに陥ってしまった。
(その結果がまさに、先の辻本清美の事件だったともいえるんじゃないか)


最近、はてなの界隈を含め、物を考えるタイプの若い人の間で問題にされているようなこと、実感を欠いた右傾化とか、進歩的知識人の抽象的俯瞰的な視線の目的化なんていうのは、こうした大きな構造を土台にした、上澄みで起こっている現象なんだね。


こうして実体的な現実や構造と、論理の擦りあわせの機会を失った進歩的知識人は、純粋に論理自体を目的にし、難解さを競うような隘路へと入り込んでしまっているように見える(リアリティの根を失い、観念化したり、逆にただのプラグマティズムに陥ったりしているのは、保守派も同様)。
学問のムラ社会の権威の維持と大衆蔑視自体が、暗黙の目的になってしまってるようにさえ見えるような状況に80年代以来陥って、現在では、社会的、公共的な共有感という前提が失われたために、思想が、お勉強クンの個人的な嗜好や立場を補強する道具のようになってしまっているようにさえ見える。


こうまとめると、まるでがっちりした共同体があった昔は素晴らしくて、それが失われた今は駄目だってふうに読めちゃうかもしれないけど、そういうことじゃないんだ。
ざっと大雑把なまとめだけれど、要するに、今の消費を媒介にして極端な個人主義が済し崩しに進んだような状況は、産業構造や経済状況の上澄みとして、必然的に起こったことだってことを説明したいだけなんだ。
そういう状況に対して、かつての人々がただ共同体になじむことだけを考えていればよかったように、今ここでうまくやるってことだけを考えていたら、自分の了見で自由にやってるつもりが、実は状況に煽られて闇雲に走らされ、降りられなくなっているだけ、なんて状態に往々にして陥ってしまう。
どんな社会、どんな状況でも、問題点というのは必ずあるもので、それを自覚し、対処していくために、大きな歴史とか経済の流れを見て、その中での現在というものを相対化してみる必要があるんだね。
俺達のように、不器用だったり敏感すぎたり、いろいろな理由で適当にうまくやることができず、信じるものや指針を強く欲してしまうような人間は尚更、無意識に煽られて目の前のことだけにはまり込んでしまうことを、警戒しなくちゃならない。


共同体に属してその中で育ち、生きていくと、長幼の序とか、世話になった人に対する義理とか、そういったことが自然に大切になってくる。窮屈だけど、筋ははっきり見える。
けれど半面、属して順応するということ以外を敢えて意識しなくても生きていける状態だと、内輪の義理や仲間意識を優先するために、自然にその外にいる人を同じ人間として扱わなくなるようなことにもなりがちだ。
「みんなそうだから自分もそうしてる」ってふうな無責任に埋没してしまったりね。
だからといって、はっきりどこにも属さない個人が今、自由になり、自分の置かれた状況に距離をとって相対化できているかというと、必ずしもそうとも言えないことが多いように見えるね。
誰も「その場」全体に対して責任感を持たず、有利な場へと一人勝ち逃げしようとするために、万人が万人の敵になってしまって、弱いもの同志が手を結び、助け合うようなことが難しくなって、より弱い所にしわ寄せが集まり、どんどん置き去りになるような状況が起こりがちだ。
(中高年のリストラ自殺とか、闇金に手を出して一家心中とか、かつてはある程度やんわりと地縁血縁で援助しあったようなことを、個人や一家族だけで処理しきれずに簡単に潰れてしまうような事件が、昨今とみに多いように)


自分の了見の狭さとか、人間の理性とかモラリティっていうのが、実は相当に当てにならないものだっていうことを、それを制限し補強する共同体って枠が失われたからこそ、心して疑ってかかる必要があるってことだけは、間違いないな。
人間、自分で自分を制限するってことが、実はいちばん難しいことで、ここをまずいちばんに考えないと、右だの左だの大状況を云々してもそれは形だけの付け焼き刃であって、だから空々しく感じられてしまう。自分の根っこの保身やエゴの部分に無自覚なまま棚上げにして、かっこいいことを言ってしまったりもしがちだな。


俺は今、こんなふうに共同体を再建すべきだ、なんて具体的に大きな見識を持つことなど、到底できない。
(だけど同時に、いろんな試みを冒険しながら、失敗含めて経験を貯えるってことは、とても大事なことだとも思うよ)
こうして、杜撰で大雑把な構図を、たどたどしい駆け足で語ること自体、本当は面映ゆいし、自分でも空々しいなと、実は思っていたりもするんだが、ただ、こうしていろんな状況の長短の実感や経験を振り返って考えてみたり、他の誰かと違和感を擦りあわせたりという過程そのものの積み重ねの方に、実はより意味があるはずだとも思っている。
そうして、少しずつ、「今だけ」「自分だけ」が現実じゃないという実感、リアリティを積み上げていくこと。
そして、誰かと共有し、手を結ぶための「立場」を見出せるように線を繋ぐことを、どこか意識していくこと。
そういう模索の認識と意志があるだけで、自分にとっての現実は「過程」としての意味を帯びてくる。


これはとても迂遠な作業だけれど、だからこそ地道に、迂遠を当たり前の前提として覚悟して、はじめられなければならないと思う。


そして、今までの話を台無しにするようなことを敢えて言えば、大抵のことには自分の代で解決のつくような、便利な処方箋なんか無いし、また、それでも懲りずに生きていかなきゃならない、生きられてしまったという、諦念や疲労感を含めた実感を共有できることこそが、本当は何よりの救いなんだよな、とも実は思っている。
そうした諦念を、暢気と抱き合わせの粘り強さへと転換して、歩みを持続していけたらというのが、当面の俺の立場であり、目標なんだな。