narkoさんのところでの「原っぱ」の話にも繋がるんだけど

http://d.hatena.ne.jp/narko/20040212
例えば橋本治は、雑誌『考える人』の連載の中で、生まれ育った昭和の下町を「全員が全員に挨拶をするのがあたりまえの世界」だと書いていた。
けれど、世の中が貧しくなくなって、誰もが「自分一人で生きている」という実感を持ってくらすようになると、「誰とも挨拶をしない」ことが、新しいマナーになる。「他人に干渉しないのが礼儀」の世界では、あいさつするやつは、面倒くさい、変なヤツってことになる。
そして、この二つの世界の間に、「いったいどこからどこまでの人に挨拶をして、どこから無視したらいいのかがわからない」という、「崩れかけた田舎」という状態がある。そして、僕がアイデンティティ形成をしたのが、まさにこの時代なんだな、ということに思いあたるわけです。


上手に消費社会に染まって、上手に遊び、新しい世界に適応しようとすることが、そのまま古い社会の価値観で出来上がっているお父さんお母さんを「泣かせる」ことになる。
けれど、実際においてはもう、大人達も古い世界を捨てようとしている。効率よく勉強し、出世し金持ちになる競争を子供に奨励する。
けれど、その内実が何かということを彼等は知らない。
そして、自分達の価値観や倫理観が崩れていることに、怒りや苛立ちや寂しさを感じている。彼等ももう、共同体の価値観に守られていないから。
それを子供は敏感に感じつつ、半面親が無自覚に抱えた自己矛盾に混乱する。
僕が尾崎豊紡木たくから感じた共感は、こういうことだったんですね。


だからそれは、上の世代からは「反抗」に見え、すっかり新しい時代に親ごと移行してしまってから育った下の世代のサブカル君には、ウエットで古臭いものと感じられる。
孤立してるんだな。


けれど、そういう我々だからこそ、新旧両方の長所短所に敏感に気付き、幅として抱えながら、小さなタコツボがお互いをちゃんと知ることなく独り善がりに判定しあうような状況に、実感的に抗する意志を持てるのだなと、ちょっとだけ自負したいところもあるわけです...
そんな僕にとって、下町民主主義は、ちょっとした理想であり、「遠い希望」なんですね。


このテーマについては、以下もご参照いただければ。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20031008
http://www.axcx.com/~sato/senbikiya/j-pop/yn02.htm
http://www.axcx.com/~sato/senbikiya/j-pop/yn01.html
http://www.axcx.com/~sato/senbikiya/j-pop/kishidan01.html