『GO』(行定勲監督)

なんというか、肝心なことを迂回するために、不自然に明るく振る舞ったり、深刻になったりで忙しい映画だったなあ、という印象。
宮藤官九郎の脚本にしばしば感じることなのだけれど、自分の中でクリアされていないことを、巧みに先回りしながら「いやあ、わかってるんですけどね」というセルフボケツッコミや内輪ノリで誤魔化してるような、過剰なパフォーマンスの鬱陶しさがずっとつきまとう。しかも、同類による受け手の市場がそれなりに幅効かせてることに対してしっかり安心しちゃってる気配に、イヤラシサが倍増。
今回のような、明朗な少年性をテーマにした映画の場合、特にそれが際立ってしまってると思う。


自意識過剰を棒読みで誤魔化してるような演技で、さりげない「自然体の個性」を装って、結果ただの不思議ちゃんになってるようなセリフをしゃべる窪塚。それに対して、若い青さゆえの背伸びとして微笑ましく見るような意図が、背後にあるわけでもない。
こんな小細工でピュアを装い、客と馴れ合うことに腐心するよりも、同じ差別の現場でも、個々の性質や境遇によってどんな落差が生じてくるか、そこを見なければキャラも物語も立つわけがないじゃないか。(こういうとこで過去の名作を引き合いに出すのは卑怯かもしれないけど、ほんと『ガキ帝国』あたりと比べると一目瞭然。妙に美化したり、かわしたりしなきゃ描けないってことに、実は許容してる人間の幅の狭さが出ちゃってる)
ビデオクリップっぽいスピーディーでチープな前半の画面処理と、後半の、やたら持って回った長まわしのコントラストも、こうしたリアリズムとファンタジーのさじ加減が定まらない脚本と相俟って、わざとらしく退屈だった。


憧れでもコンプレックスでもいいから、要はしっかりそれを引き受けて欲しいってことに尽きる。半端な器用さで、自分にとって安全で扱いやすいものへと擦りかえるようなやりかたは、単純にセコいし、描く対象に対しても失礼だと思う。(しかもそこに、「この主人公は真正のマッチョやヤンキーみたいなのとは違って、こちら側なんですよ」という、ウチワへの目配せが入ってるのが透けて見えて、尚更キモチワルイ。しかし、こうしてみると『キッズ・リターン』でクドカンをカツアゲされる学生の役に振ったたけしは、さすが卓見だったというべきか...)