一方で、ショーケンのような存在は、

俺を自由にしてくれる。熱くて真面目で一本気な人間臭さに共感や尊敬もあるけれど、無邪気な素直さ、いい意味でのバカさが勝ってるから、しみったれた気分にならないのがいい。「部屋散らかりっぱなしでもいいじゃないか」って気分にしてくれる。生理の強さ故、激しい思い込みにまとまりがつかなくて、かつ融通きかないところが、外からはつかみ所が無くて「コワい」けれど、それも突きぬけた印象を生んでいてカッコイイ。しかもオカシイ。
(今日も、夜ヒットで「桜子」歌った時のビデオを観てたんだけど、あのオーソドックスで静かな曲に、あの気迫は...自由自在で、全く展開想像つかないあの動きや、眼光の圧力、その都度言ってることがどうであれ、どうしてもにじみ出てしまう狂気じみた迫力。なんとしても、体なおしてください)
こうした開放感にふれていると、こちらも自分の自意識が吹っ飛んで、ある種無責任で風通しの良い状態になれるし(しかも、変にシニカルになりすぎず、熱さや無邪気な憧れをちゃんと含んでるのがイイ)、この感覚を共有する人達との付き合いは、肩が凝らなくてすごく楽しい。
実際、俺は相手の心象を気にしすぎて、かえって付き合い全部が面倒になっちゃうことがままあるようなヤツなんだけど、こういった趣味を媒介にしてる時は、社交的でいる事が苦にならない。


紡木たくに共感するような「便利じゃないマジメさ」への信頼感、安心感は、俺にはとても大切。やはり、これを失って生きたくないのだ(単純に根性無しでという「だけ」じゃなく。これは、同時に読んだ『NANA』の新刊への違和感と共に、あらためて強く思ったところだけれど、長くなりそうなのでまた後日)。
けれど、贅沢者の俺は、同時に自由な衝動や開放感も呼吸していたい。
マジメもアナーキーも、俺にはどちらも捨て難く大切だ。
調度「いい加減」は、ずっとわからないままだけれど。
(したがってどちらにしても、はじめから「正しい側」「盤石な側」に立場を固めようとするような人と、具体的な立場の方向を問わず、互いに目の仇にし合うようなことになりがちなわけだな。あと、そこから零れ落ちそうだからこそ、必死に立ち回ったり、スケープゴート探してるようなヤツとか...)
そしてまず、そうした自分を許すために、もろもろの矛盾を抱えた人間存在を、どこかで正直に受け入れていたいと思う。自分に都合が悪いからといって、世界の天井を低くするようなことはしたくない。
ま、「言うは易し」なんだけれども...