マイマイ新子と千年の魔法

bakuhatugoro2009-12-08


いつも愛読しているこちらhttp://d.hatena.ne.jp/Dersu/20091202のブログの、異様に熱の篭ったレビューが気になり、今週末の上映終了を前に、新宿ピカデリーにて駆け込み観賞。
昭和30年代の山口県の田舎を舞台に、土地の小学生と東京からの転校生の女の子二人が、のどかな田園風景の中で遊びまわったり、網目状の水路や遺跡から、目の前の景色に重ねて1000年前の風景を妄想したりといった物語。
正直、このタイトルに、一昔前の名作アニメ風のちょっと地味で野暮ったい絵柄など、掴みの部分での魅力に欠けていることは確かだと思う。
本編を見始めてからも、冒頭部分のちょっとたどたどしくメリハリのない展開や、遺跡や過去の風景についての説明台詞の多さに退屈しかけた。田舎の大人たちが皆おとなしく、何故か皆ささやくような話し方をすることにも、自分が地方出身者ゆえ、違和感があった。
ただ、東京からの転校生と、昔の田舎にはたくさんいた、年中鼻汁を垂らしてて爪を真っ黒に汚してるような、育ちが悪くて言動が下品な野暮ったい子との、確執の描写の丁寧さに惹かれて、少しずつ映画に入り込めるようになった。
二毛作の田んぼの風景や、木造校舎など、まさに僕自身通ってきた風景だ。帰り道に用水路に降りてカエルやザリガニを採ったり、ヘビを捕まえて道路の真ん中に放りなげ、トラックに轢かせて遊んで大目玉を食らったり、引き取り先のない捨て犬を囲んで、下校時刻を過ぎた体育倉庫に隠れて友達と途方に暮れたり、なんてことを年中やっていたし、田んぼや山に囲まれた風景に、ウルトラマンマジンガーZが立ったらどのくらいに見えるかとか、もし瀬戸内海からヤマトが飛び立ったら上空を通過するのはすぐだから、どんな大きさに見えて音や衝撃はどうだろうとか、よくボサっと妄想したりした(ダム建設も大好きでよくやったけど、なかなかこう鮮やかにはいかなかったなあ。すぐにぶち壊したがる乱暴な邪魔者が、必ず現れたし・笑)。そういう意味では、夏のお台場のガンダムなんて、まさに子供の頃の夢がかなったはずなのに、世の中の方が騒ぎすぎてるからか、どうも自分の中では「異化作用」が働かず、盛り上がらなかった。
そうだ。最近、少年マンガの中に、刑事など現実の職業に就いている大人を主人公としたマンガがほとんど無くなっているけれど、今回本編前に流れた予告編を観ても、異世界だの魔法だののファンタジーのコーティングが分厚すぎる画面に、ずっと落ち付かない気持ちだった。
CGだらけの映画のように、摩擦を回避する綺麗ごとにエフェクトされて、ナマの現実の方が見えなくなっているのが現在だと、あらためて感じた。
だから本編についても、正直いうと千年前の描写、説明の部分は退屈で、煩雑な説明が映画を冗長にするだけなので、個人的にはちょっと余計に感じた。
対して、秀逸だと思ったのが、不器用で孤独癖があるが、内心に寂しさと優しさ、無骨な男気を秘めている、田舎の警官の息子タツヨシの描き方。彼の家に起こった事件をきっかけに、子供たちは大人の世界を垣間見ることになる。ここが全編の要になる部分なので詳しい内容は書かないが、描き方のさじ加減が素晴らしかった。
田舎の大人のステロタイプな人物評価や噂話。無骨で実直な男の持つ、半面の屈託や、大味で行き届かない部分。同様に、田舎の子と都会の子の和解についてもそうだが、理屈や道徳で説明したり、作り手側の見解やメッセージを発信したりということをこの映画はほとんどしない。そして、拍子抜けするくらいあっさりと(構成が決して巧くないことも手伝って)、その時々の出来事が流れていく(すべてをさり気ない描写だけで見せる演出は、説明過多な昨今の作品に慣れていると、そっけなく感じるくらい。その硬派な節度から、僕はラッセ・ハルストレムの初期作品を思い出した)。子供が大人や世の中に対して持ちたがっている、シンプルな安心や正しさに亀裂を入れかねない大人の事情を隠さず(けれど露悪的にならず)垣間見せるが、そのことの善悪や幸、不幸をほとんど語らない。生々しく、同時にあっさりと流れていく現実を、元気で「気にしすぎない」性格の新子をはじめ子供たちは、「よくわからないい」ままに、何となく飲み込んで生きていく。そのことの意味は、これから人生の長い時間をかけて、子供たち自身がそれぞれに考え、理解していけばいいというのが、製作者たちのスタンスだと思うし、だから却って見終わった後、深い余韻を残す。
ただ、だからこそ、本来の観客である子供たちにとっては、正直直接的な吸引力は弱いかもな、とも思う(子供って、経験の蓄積による認識の幅と心の重石が少ない分、感情も欲望も暴力的にむき出しで混沌としているからこそ、シンプルでわかりやすい物語や説明原理を、性急に求めるものだから)。
けれど、よくよく思い出してみると、子供にとっての現実の把握というのは、まさにこういう白昼夢のようなものだった気もする。
意味として整理し、理解していなくても(むしろ、整理できないものだからこそ)、その時の景色は、確実に心の奥深くに刻まれている。自分の記憶で言えば、ストーリーや喜怒哀楽の類を理解できない大人向けの映画やドラマの印象も、まさに白昼夢に近いものだったし、例えばそれは、友達の家に遊びに行くと、山裾のあばら家に、一升瓶と一緒に昼間から寝っ転がった親父さんが物凄く怖かった時の記憶(そして、その後その友達がどんなふうに変わっていったか…)などと一緒に、自分の世界観、人間観の深い部分に影を落としている。
ただ、これは個人的な体験を抜きにはあり得ない感想でもあって、若い観客や子供たちにとってどうなのかが、僕自身とても興味深かったりする。例えば僕が戦時中の暮らしを肌で知らなくても、『少年時代』や『この世界の片隅に』の世界が持つ静かな厚みに、懐かしさと愛着を感じ、更に深く知りたいと思ったように、本作と彼らの関係もそうであることを信じたいし、良い出会いを願ってやまない。


とはいえ、東京での公開は今週金曜まで、子供たちや一般の社会人にはなかなか観る機会を作るのが厳しそうなのが残念。
こちらhttp://www.shomei.tv/project-1385.htmlで上映続行の署名活動もやってるとのことなので、集団的でかつ、実効性の怪しい行為には懐疑的な自分も、藁にもすがる気持ちになってしまう。
こうした推薦文的レビューというのは、ともすれば映画ファン同士の社交と自己満足が優先されたはしゃぎ方にも見えて、(殊に僕自身のようなタイプの)外野の気持ちを冷めさせかねない部分もあると思い、つとめて冷静な感想を書いたつもりだけれど、野心作であることは疑いないし、上に挙げた細かな弱点を覆して余りある力を持った傑作だと思います。
例えばかつての『となりのトトロ』と『火垂るの墓』のように、夏の『サマーウォーズ』と同時上映にしてくれていたとしたら、互いの弱点を補いつつ、インパクトと重量感を強めあう良い組み合わせだったんじゃないかと思う。
どこかの名画座でこの組み合わせ、やってくれないかな。

11日追記 『マイマイ新子』と『赤毛のアン』

マイマイ新子との出会いのきっかけを作ってくれたid:Dersuさんが、レビューの後半部を加筆されていて、大変面白く読んだ(彼のものだけでなく、web上に次々にupされている感想には、自身の根本を見つめるような刺激的なものが多い)。
http://d.hatena.ne.jp/Dersu/20091202

この闘いは決して無価値ではなく、ここでふりしぼった勇気と得た経験は、
生涯自分を力づけてくれる類のものだ。もし何もしなかったとしたら、
別れに際してタツヨシは笑えただろうか?

たとえそれが周囲からははた迷惑であったり、道徳的には批判されてしかるべきものを含んでいた場合でも(あるいは、その時点で無思慮や無分別を含んでいたとしても)、それを引き受けて尚行動すべき時というのは、確実にあると思う(僕の場合、紡木たくホットロード』で、主人公の和希が、自分に向き合う担任教師の真摯さを内心理解しながら、それでもハルヤマとの同棲生活に身を投じるシーンを、すぐに思い出す)。
人は社会の中で、勇気のなさを「分別」と言い換えるような退廃したシニシズムに、往々にして陥りやすいものだからこそ。
そこまで意識的であるとは言えない、新子たちの子供らしい突飛な行動に重ねて、こうした話をするのはやや無理があるかもしれない。
ただ、自分を振り返ってみると、物心ついてからだって、オッチョコチョイでお調子者で、安易に他人に同情して走り出しては、結局自分と相手との落差を埋めることも、逆に開き直ることもできず、却って関係を微妙なものにしてしまうようなことが多かった。戦うべきことと飲み込み流すべきことの見境いが、今も付かないことが多い。
人は、ある程度物事を割り切り、開き直らなければ生きられないし、世の中も回らないけれど、それでも同時に、こうしたカタの付かない逡巡の積み重なりが、自分と他者やこの世界とを繋ぐ、大切な重石になっているという実感もある。
子供が信じたがっている正義や安心感を覆すような大人の素顔を見せながら、一方でシニシズムを先回りしない。
新子やタツヨシが見たものや、その結果について、先回りした主張をしすぎない、真摯に子供たちに向き合った結果であろう節度が、この映画の最大の魅力だと僕は思う。

もうひとつ、「空想の力」について。
僕が『マイマイ新子』を観るにあたって真っ先に連想したのが、『赤毛のアン』だった。
自分にとって『赤毛のアン』は、アニメのオールタイムベスト1級の作品で、最初のうち、田舎の描写や新子の空想の様子に、もう一つ魅力を感じにくかったのは、正直、『アン』を期待するが故の比較が念頭にあったせいもあると思う。
アンの空想の根が、孤独な生い立ちや、それが影を落とした故でもあるちょっとエキセントリックな性格にあり、そうした彼女の「空想による世界の見立て遊び」が、マシュウやダイアナを喜ばせ、受け入れられることをきっかけに、現実への出口を持ち、それを豊かにしていくことに、強い共感と憧れを感じた。
その点、空想の動機や背景については、新子は随分フラットで、あそこまで妄想に埋没する根拠が見えにくかった。
勿論、元気で素直な性質込みで、これは新子の魅力であり、間口の広さでもあるのだけれど、彼女をそう在らしめている彼女が住んでいる世界、昭和の田舎の(見た目のディティールだけではない)住んでいる人たち、特に大人の描写に物足りなさを感じたことだけは確かだ。
だから、新子の空想の根を感じにくかった(ちょっと意地悪く言うと「想像力の礼賛」先にありきというか、大人や元学校優等生が喜びそうな子供像っぽく見えて、抵抗を感じた。みんなで遊び廻るようになってからの見立てごっこでは、ほとんど気にならなくなったが)。
クローズアップされていたおじいさんやひづる先生は、当時の日本の平均値とはかなり距離のある、インテリでありエリートで、マシュウやマリラのような、その暮らしぶりと一体になった、正負込みの魅力と厚みを感じさせるキャラクターが、タツヨシの父親しかいなかった(できれば、「大人の事情」という負の側面の衝撃だけでなく、彼らの懐かしさと豊かさに出会いたかった。これは『新子』を十二分に認めた上でのないものねだりなのだけれども、それでもこの一点においてだけは、『サマーウォーズ』で藤純子が演じた栄おばあちゃんに、僕は軍配を上げる)。

『アン』の世界を僕が本当に好きだなと思うのは、大地に根付いた人たちの、不変で静かな生活(マシュウやマリラが代表するもの)と、それをバラバラにしてしまわない程度に吹いてくる近代の風(ステイシー先生やアラン牧師夫妻、ジョセフィンおばさん達がもたらすもの)の、素晴らしいバランスだ。
それは「戦うべきこと」と「受け入れるべきこと」の間で揺れる、節度ある緊張感とまっすぐに繋がっているとも思う。

以下は、僕の若い友人による、『アン』のこうした魅力にスポットを当てた論考。
この機会に、『アン』の読者、そして『マイマイ新子』に心を揺すぶられたような人たちに、是非紹介したいと思いました。
『L.M.モンゴメリの『赤毛のアン』について』
http://d.hatena.ne.jp/anneshirley/

赤毛のアン DVDメモリアルボックス (再プレス)

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