スタジオジブリと村上春樹


ガルシアの首君へのコメントに加筆、UPしました。http://d.hatena.ne.jp/headofgarcia/20060322
村上春樹の当時の「打ち出し」には、全共闘に限らず、ある場が逆らいがたく一色に染まってしまうような脅迫的な空気に対して、個人的な趣味性や感覚を対置したってところがあった。けれど、彼や彼の支持者がそうした「空気」からしっかりと距離を取れるような強靭な「個」を何を根拠に築けたかというと、これは思いっきり怪しい。
そして、その後どうなったかというと、日本的な、あるいは全共闘的な「滅私的ストイシズム」を批判する一方、市場経済や消費社会を前提にした個人主義→ミーイズムへの自己完結を、誰も批判できなくなってしまった。消費者としての自分、趣味人としての自分がセルフアイデンティティになってしまって、誰もが自分を社会の連なりの中の当事者として認識することを逃げるようになってしまった(ガルシア君のはてなでも最近続いているオタクvs嫌オタクの論争も、残念ながら俺にはこの枠内で、それぞれの趣味を主張してるだけにしか見えない)。



こういう意味で、春樹とスタジオジブリが80年代以降の日本で果たした役割は、実はとても近い。冷たいビール、風にそよぐ女の子の髪、おいしそうなパン。そして個人的な感傷。それぞれが持つ前提を抜きに、こうした快感には逆らいがたい魅力があるし、それは一見土着的なものと切り離されたプライベートなものに見えて、実は共通感覚としてとても共有、共感しやすい。そしてこれは、実は高度情報消費社会、そしてポップカルチャーの誘惑と威力そのものでもある(そして! 日常を取り巻くノイズを取り除いて、自分の趣味と妄想だけがすべてになった「成れの果て」こそがセカイ系であり、「萌え」の正体だろう。一見これと対称的なものに見える、いわゆる映画秘宝的な暴力やジャンク「のみ」への偏愛の普及も、ノイズや揺れを除去した、ポップの成れの果て的な趣味ってことでは全く同じ)。



自分を「弱者」「被害者」「告発者」という位置に置くのは、実はとても楽で安易なこと。かつての全共闘運動はその落とし穴を相対化できなかった。
自分の(人間の)中にある、いかんともしがたく、強さや、美しさや、意味を求めてしまう指向を受け止め、その暴力性を誰かに押し付けてしまうのでなく、自分たちの前提として引き受け、どう落としていくかを考えることこそ、今俺たちの中に蘇らなければならない志向であって、春樹的な自己完結はその時、まず批判的に意識され、乗り越えられなければならないものだと思います。