『キャシャーン』に足りないものは、『キャシャーン』にだけ足りないものなのかな?


サイゾー」の紀里谷監督インタビュー、熱血白樺派青年ぶりがサイコーだった(笑)
id:narkoさんが尾崎豊に似てるって書かれてて、俺もその通りだと思うけど、もっとかぶったのはむしろオリジナルの、武者小路実篤とか(笑) あのまっさらな性善説ぶりや、業界批判からも匂う、周囲の人間の幅の狭さなんか、全部含めて(彼の周りには、グチってるお前だって坊ちゃんじゃねえかよ、ってツッコミ入れてくれるヤンキーとか、いなさそうだもんね。いたらいたで、結構素直に「ワカラナクナッテキター!」ってなりそうだけど...ってまさにキャシャーンがそういう映画か 笑)。


このインタビューでもそうだったように、『キャシャーン』に対する批判の核になってるものって、「どうして、テーマを台詞で説明しちゃうのか」ってことだけれど、それだけならば、それは例えば『下妻物語』あたりの、一連の映画なんかにしてもそのまま言えることで、つまり描写で納得させることが出来ず、作品そのものがエクスキューズだけでできてるってこと。
なのに、どうして前者だけが酷評にさらされて、後者が「それが現在なんだから仕方ない」ってふうに贔屓されてるかといえば、要するに『キャシャーン』が青臭く破綻しながらカラんでいる相手が、「どうせ」「わかってる」ってな現在の韜晦を装った自己肯定と、その巧妙さが作り出す窮屈さみたいなもので、後者は最終的にその逆で「わかってる」自分を肯定するアリバイ作りだから。
(そういう意味で、こちらhttp://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20041023の考察は大変誠実で、好意が持てた。逆に、自己撞着の典型と見えるのがこういう感じhttp://d.hatena.ne.jp/screammachine/20041023


けれど、『キャシャーン』が駄目なのは、紀里谷さんの言うように「描写が無いのが悪、という風潮が業界の空気だから」ってことだけでは決してない。
各々が「身内への愛」故、遠くの他人に犠牲を強いた結果、結局は双方の恨みが連鎖して、(戦争に極相として現われるような)不幸が生まれる、という『キャシャーン』の物語、メッセージから抜け落ちているのはやはり、観念的な意味ではなく、自分が弱かったり、怖かったりする、実感のリアリティと、それを支える描写だ。
主人公が、戦場で上官に命令され、また本人も恐怖にかられて、ゲリラであるかもしれない村人を殺してしまうシーンは繰り返し出てくるけれど、「状況にそうさせられてしまった」というニュアンスが強い。これは例えば、エヴァンゲリオンが繰り返していた、「人を傷つけてまで、どうして生きていかなきゃいけないの?」「こんなにつらいのに、どうして生きていかなきゃいけないの?」という例の問いと、実は同じものだと思う(あと『完全自殺マニュアル』とかね。ただ、それらにあって『キャシャーン』にないのは、悪意や怯え、嫉妬といった負の感情を自分の内に抱えている実感と、それを恥じていることによる恨みがましさで、だからお人好し丸出しな『キャシャーン』に正直俺は悪い気がしなかったんだが、逆にオタクやサブカルの人にしてみれば、この能天気さがまったく引っかからなかったり、腹が立ったりするところなのだろう)。
そして、両者の、自分のそうした悩みと、戦争を直に結び付けてしまうところに、俺は距離に対するデリカシーの無さを感じる。


例えば、吉田満戦艦大和ノ最期』の中に、大和の沈没を防ぐ為に、まだ人の残っている機関室を直ちに閉鎖する場面がある。こうした場面に直面した時「多数を生き残らせる為に、誰かを犠牲にしてもいいのか?」、なんて問いかけををするヤツはいないだろう。それを想像するのが、異なる状況、条件の中を生きる者との距離に対するデリカシーだと思う。
けれどこの大和の出撃自体が、今後の戦況に対して何の見込みも無くなっている状況の中で、まったく無意味に行われた自殺に近いものだった。しかし大勢に対して何の力も持たない乗員たちは、自分たちの死が一体どんな意味を持ちうるのかを必死に話し合う。そして、これは誤った日本の無責任な精神主義の墓標であり、この愚行を礎にして日本は新生されるのだ、という結論をとりあえず出し、それを信じようとする。
同時に、彼は戦後、反戦平和、民主主義へと一転、戦争やそれ以前の日本にすべての悪を押し付けて、さっさと反省を終わらせたかの態度を見せる世相の中で、

死者、生存者を含めた無数の日本人の自己犠牲、あの善意は、まったく報いられないで終わるのか。救われる余地はないのか。彼らの無念な思い、果たされなかった願いは、戦後の仮り初めの平和のなかで、どこに消え去ったのか。

という問いかけを続ける。


しかし、過酷な最前線を一兵卒として戦った古山高麗雄は、その時の自分たちが自己犠牲や善意で動いていたとは思えず、ただ強い者につかまってここにいるだけだ、怖いからやるだけで、戦争をやる気があってここに来てるのではない。逃げなれなかっただけだ、と描写し、吉田に反論する。
しかしまた同時に、

吉田さんは、積極的に戦闘に参加したものは内心で平和を嫌悪し、一方消極的に戦闘に協力したものは平和を愛好したはずだという図式化では、人間と戦争のかかわり合いは語れない、それは、もっと多岐複雑だ、と言うが、私もそう思う。人間と戦争とのかかわりあいに限らない、図式が語るものは、貧しく少ない。私は、自分を、吉田さんとも、(中略)また、あの痴呆的な考え方を、教えられたり強いられたりしたことに素直であった人たち、あの戦争に背を向ける考えなどみじんもなかった人たちとも、イッショなのではないか。そう思って付き合って行きたいと思う。

とも書く。


こうした図式化できない実感というのは、それをいやおうなく積み重ねた当事者にしか語れないのは当然じゃないか、と思うかもしれない。それに、こうした過酷さを知らない者に、戦争を語り、考える資格が無いと言いたいわけでもない。ただ、それを考える以上、分からないながらも、それに一歩でも近づき知ろうとし、また、それが我々に判断、裁断などできようがないものならば、しっかりと描写しようと努力するのが、礼節なのではないかと思う。


戦争というテーマと、彼が「人を傷つけてまで、どうして生きていかなきゃいけないの?」「こんなにつらいのに、どうして生きていかなきゃいけないの?」という問いかけをイコールで結ぶのは、あまりにも乱暴だと思う。
が、だからと言って、その気持ちが、取るに足らないものだと言いたい訳じゃない。ただ、それならば彼が本当にやらなけらばならないことは、戦争のようなはっきりとした過酷さのない状況で(というか、戦争という大きな悪を否定してもなお)、どうして自分がそう感じているか、ってことの、そんな自分を育んだ状況の丁寧な描写を含めての掘り下げなんじゃないか?と思う。
そして、「みんな自分のエゴを恥じろ」って俯瞰的な結論に安住することなく、格好がつかなくても、手を汚しても生きてしまう、生きたいと思ってしまう、善悪で割り切れない欲望を実感し、引き受ける過程を踏むための試行錯誤へと向かうことだと思う。
そして、それを回避しているという意味で、自分の思いを相対化し、無力や恐れの実感を浮かび上がらせるような軋轢(あるいは、それを横にずらしてある程度先送りにできてしまうような現実の問題)を直視せず、冗談めかしてマンガ的な編集で処理してしまう、『下妻』あたりがやってる誤魔化しと、『キャシャーン』の問題はやはり同根なのだ。


サブカルやオタクの人たちの『キャシャーン』バッシングというのは、自意識過剰でトゲトゲした女の子が、「恥」や「悪意」の実感を内に持ったことのないぼーっと暢気な(だからブリッコにも見えちゃうような)美人さんを、いじめたくなるような、ある種内向きな行為でしかないと思う。


しかし、こういう人に、自他の中の「悪意」や「欲望」を、リアルに実感しろっていっても、ムズカシイだろうなあ。