覚書『ヴァイブレータ』


 まず、ピンク映画出身の廣木隆一監督と、にっかつロマンポルノの代表的ライターの一人荒井晴彦脚本(『KT』での坂本順治とのもめっぷりをはじめ、このところまた気を吐いてきている様子)による『ヴァイブレータ』。
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 未婚の30女、アルコールと食べ吐きと長電話に依存する孤独なフリーライター、という主人公の設定は、いわゆる90年代に定番だったトラウマヒロインの典型という感もあるけれど、確かにこうした商売というのは保障もなく不安定で、しかも自分の方から積極的になれない限り、ともすれば何も積み重ならないままどんどん孤立していくようなところがあり、学生時代にイジメられた過去のある女性が、世間から屹立したしのぎをしようとフリーの職業についたものの、歳を重ねるごとにかえってじわじわと追い詰められているという背景設定は、同じく30代のカタカナ職業従事者であるところの俺にも、それなりにリアリティ持って迫るものはあった。
 

 ホワイトデーの夜、深夜のコンビニで(カップルを横目に女性誌の記事に内心毒づいたりしながら)孤独に酒を物色していた主人公と、焼酎を買いに寄った長距離トラックの運ちゃん。どうにも人恋しい気分だった主人公と、何となく棚ボタ気分の運ちゃんは、トラックでやっちゃった挙句、そのまま同乗したがる女をはっきり拒否も出来ず、また何となくそのまま道連れに。数日間やりまくりながらのドライブとなる。


 主人公の内心のモノローグがカタカナ言葉の活字画面で挟まれたりとか、赤ん坊返りしたように時折過剰にピュアな表情で目をきらきらさせたりする寺島しのぶの演技が必要以上にエキセントリックだったり、どうにも演出のおっさん臭さは目につくのだけれど、そうしたおっさん達のスケベ心やブンガク趣味の空回り具合も含めて、行き場無くはぐれたねえちゃんを「痛い」とも「悲惨」とも思わず、ストレートに同情し、かわいいと思っているようなこの映画の「お人よし」な気配を、俺は悪くないなと思った(要するに、新しすぎない、ちょっとダサい感じがかえって良かった)。
 ぼさっとしていてそれほど神経も細かくはない、ハッタリ屋だが根は小心で気のいい、ヤンキーあがりの運ちゃんの「わかってくれるわけじゃないけど、いい具合に気に止めないでいてくれる」ざっくりとアバウトな優しさに触れたり、孤独に内面と自意識に拘泥するループの日々を離れ、ちょっとした非日常で出会う風景の美しさにはっとすることで世界との一体感を取り戻したり...こうして書くと字面はベタかもしれないけれど、確かにこういうニイチャンにいてほしい、いるべきだと思うし、こういう体験はあってほしい、その前提となる人や世界の連なりはあるべきだし、あるようにしなくちゃいけないな、とも思う。
 要するにこの映画、人生において自分の意図や裁量を超えた現実のイレギュラーや他者の存在を、もう少しだけ「良し」にしちゃっていいんじゃないか、むしろ敢えてそう意識しないと、ともすれば「自分」にこだわりすぎることから生ずる閉塞とシニシズム自家中毒してまずいことになっちゃうだろ、という姿勢が根底にあって、それがとても現代的な聡明さと感じられて、良いと思った(「トンネルを抜けたら、そこは〜」的な、さりげなく繊細でヴィヴィットさを感じさせ、かつフィティッシュ過ぎない、ロードムービーという感じで開放感のある画もよかった)。
  

 そういう意味ではラスト、旅の終わりに主人公はトラック降りなくても、そのまま運ちゃんとの暮らしがはじまったって全然構わないのに、とも思った。別に運ちゃんや、旅の中で開かれた景色を「非日常」と規定しなくても、むしろそれを「日常」とする選択肢もありえるって方に力点を置いたっていいんじゃないかと。
 が、そうはせず、ただ体験だけを肯定して日常に帰っていく後姿をラストに持ってきていることにも、孤独な観客を相手にしていることの矜持と仁義とを感じたし、結果ではなく生きていく過程の中に、つかの間だけれど時折確かに現われる純な心情や、交歓の光景を写し撮ることに繋がったとも思う。


 しかし、やはりこれはまごうことなきおっさんであるところの俺の感想であって、自分の周囲の30前後の独身、カタカナ商売の女子達を思い浮かべると、むしろ確実に激しい拒否と反発を食らうだろうな、とも思う。
 女性に限らず、ツッパッている人というのは多くの場合、自分が痛い、苦しいことを頑なに認めたがらないものだし、そのプライドがまた彼女達をやさぐれさせ、孤立させてもいるのだが、寺島しのぶの女くさい不思議ちゃん的な演技、演出というのは、実は自分の不幸を必要以上に吹聴したい、ある種の甘ったれた若者やインテリの類しか感情移入できない、だからそれを甘やかすオヤジ共も含めて、彼女達にとって唾棄すべき存在でしかないからだ。
 このあたりは、ゴールデン街で酒くらって議論に明け暮れ世を憂う、ルーズなドロップアウトオヤジ共のセンスの限界だとも思うけれど、せっかく下降や孤立への過度な意味づけやナルシズムを廃し、現代的な「はずみ」や「なしくずし」の結果の個の寄る辺なさをも、「人生いろいろあるもんだ」「脛に傷のひとつやふたつあったっていいじゃないか」の心で太っ腹に許容している映画作ってるんだから、あと一歩趣味や下心を抑えた、対象への理解とデリカシーが欲しかったな、とは正直思う(ただ、派遣だのフリーターだの自由業だの、共同体に属さない身の上というのは、歳相応の責任が自動的に課せられて成長するってことが難しい環境ではあり、プライベートな感情は実はかなりつたなく幼いままって場合も少なくないのも事実。そういう意味では安心した相手に受け入れられたいあまり、甘えや混乱が全開になっちゃったり、それを「本当の自分」と思いすぎたり、なんてこともありがちではあるし、寺島しのぶの幼児化演技や幼い体形も、そこまで見越した作り手の意図だったのかも、とある程度は思えなくもない。が、それにしてもイメージ先行的な妙な色付けが匂いすぎるし、理解も表現も雑だし唐突すぎるとは、やはり思う)。
 そういう意味で、ラストに流れる浜田真理子の歌のフレーズは、<何かになりたいあなたじゃなくて、そのままのあなたが好きです>じゃなく、<何かになりたいとあがかずにいられない、そのままのあなたが好きです>でなきゃイカンだろう、とも。

 
 この映画の感想、id:narkoさんやid:tbtさんに聞いてみたいなと思った。
 また、この辺の話の難しさに関連して、こちらhttp://yazyu.cocolog-nifty.com/の9月9日分のエントリーにはかなり同感だったのだけれど、「あぶれてる男なんかと馴れ合うつもりはない」というプライドや覚悟は結構だし、気に入らないものに無理やり譲歩する必要もないんだが、一方、自分の弱点を認めないために、近親憎悪的な偏狭さにはまり込んでないか、もっと言うと、敢えてやっているつもりで、何か外の尺度や単一の価値観に縛られ、脅迫されて、それなしじゃやっていけない(弱点を認めたらおしまい)と思い込まされてるんじゃないか、と見えることも正直少なくない。
 しかし、いくら男女同権と言っても、基本的に男主導の社会の中で女性が男に伍してやっていこうと思えば、余程生まれつきの魅力や資源に恵まれた人でもないかぎり、不安定な路線を強引に直進するような気の強さが必要になってくるのも確かで、そうした認識が曖昧なままに多くの女性が社会化することも是となっているような状況だと、弱い層に無意識のこわばりができてしまうのも、ある意味当然のことだとも思うし、ことに恋愛なんてのは、てめえが結局誰を選ぶかってとこにリアリティが収斂しちゃうので、口で何を言っても空々しくって、難しいね...