ジョゼと虎と魚たち

bakuhatugoro2004-08-17


中途半端な「善意」や「理解」のそぶりは、時にまったくの「悪意」や「無理解」よりも、はるかにタチが悪い。


音楽を担当したくるりというバンドの、穏当で、かつしっかりと目配りも小回りもきいている(そして、それがこれ見よがしじゃない程度に、「引き算」の感覚も身に着けているスローなたたずまいの)在り方に、その隙の無さ故に、逆に微妙な鬱陶しさをかねてから感じていたし、ジョゼ役の池脇千鶴の小動物っぽく「媚び」たキャラクターも趣味じゃなかった。はっきり言えば、気に入らなかった。
そして、『クウネル』あたりの写真ページを思わせる、カフェギャル好きのしそうな淡い色調。


今、スローでメロウな方向にまっすぐ行けるようなヤツこそが一番信用ならん、という直感が俺にはあるので、どんなにいい評判が聞こえてきても、どうも観る気が起きなかった。
気持ちよくやられている人たちとの間に起こる齟齬を、またことさらに確認しなきゃならなくなるのが面倒くさくて。
しかし、『流行神』での浅羽通明氏の評から、「と、見せかけた」それ以上のものなのかも、という期待を持ち、DVD発売と同時に早速観てみた。


冒頭のタイトルバック、ジョゼの手によるものと思われる、少し前の「クイックジャパン」あたりを好んで読んでそうな、アングラポップ好きゴス少女風の絵にいきなり閉口。こういう連中の不幸な意識と、身障者や部落差別の不幸を同列に並べるようなデリカシーのない映画かい!? といぶかしみつつも、「いや、これも誘い水かも」と、自分を落ち着かせる。


実際、その後「これはなかなか」と期待させる描写が、随所に続く。
いい顔の若手芸人たちを多用した、主人公のバイト先である雀荘の猥雑な風景。
そうしたバイト先と大学を、こだわりなく行き来するフラットな主人公像。
さばけたブス友達とセックスしながら、しっかりきれいどころを本命に狙うような、悪びれない軽いセックス観(ブス友に微妙なペーソスを滲ませる配慮も忘れない)。


世間の善意などに端から期待せず、健常者と足腰立たない身障者が対等な人間などとは思いもしないジョゼの唯一の身内である新谷英子演じるばあさん。「世間の役に立たない身障者の貧乏人が、分を忘れて表をちょろちょろしてロクなことがあるはずがない」、という固い諦念を含め、なかなかにリアルだ(瀬戸内海の島で暮らしてた俺の祖父母も、とにかく医者にかかるのを嫌う人達だったし、いつもニコニコ大向こうに対して自己主張するようなことは決してない、「甘い期待はしない代わりに決して騙されない」といった感じの人たちだった)。


貧しい集合住宅。
精薄気味の変態の住人。
彼に屈託なく石をぶつける、近所の女の子たち。
そんな彼女達が、男とつきあうようになったジョゼの浮つきに、無意識に向ける乾いた視線。
そこは、主人公の大学生が恐れず入って来られるほどに、目に見える(世間の団結力に裏打ちされた)閉塞感や排他性は弱まっていて、彼の呼び込んだ福祉によって、ジョゼと祖母の暮らしも格段に良くなる。
そうした描写に見られるように、差別や貧しさに対する現状の移ろいと、それでも確かに残っている(そして絶対に消え去ることは無い)落差について、意識はかなり細かく行き届いている。
そしてこれらはほとんど田辺聖子の原作には描かれていない、映画のオリジナルだ。


池脇千鶴も、まだまだリアルというには足りないけれど、媚びを矯正した役作りが、しっかりとなされていたと思う。だから、不用意に近づく男に包丁で切りつける祖母譲りの固さと気丈さ、薄暗い台所で出汁巻やあじの開きを手際よく作る「生活」を持った、ジョゼの描写、設定の魅力もあいまって、反発を感じずに(かなりリアリティをすっとばした形であるにもかかわらず)好意を持ちやすかった。
同時に、こうした映画に、下心と未分化の好意をこんなに簡単に持ってしまうってのもどうなんだ?という不安定な気持ちも続くんだが...


本命の彼女と、お互いフラット(かつ実はわがまま)なキャラであるゆえにもうひとつ盛り上がらないためもあり、ジョゼの家に頻繁に通うようになる主人公。逃げられると追いたくなるの心理で、ジョゼの家に福祉見学にやってくる彼女と主人公のやりとりを見て、ジョゼは彼を拒絶するようになる。
そのまま何となく疎遠になったまま就職活動に精を出していた主人公は、訪問先の役所の福祉課で、ジョゼの祖母が亡くなったことを知り、独り取り残されたジョゼのもとに駆けつける。
このあたりの主人公の悪気のないボンクラ加減が、ある意味イライラくる程秀逸で、気持ちをかき乱されたジョゼが、思い余って口にするセリフ

「帰れ言われて、帰るようなヤツは帰れ!」


こんな、恥を忍んでのギリギリの哀願を、ジョゼの側に言わせてしまう主人公(と製作者)は、いったいどういう落とし前をこの映画につけるのか、それが俺のその後の唯一最大の関心事となった。


しかし...


ジョゼと暮らし始めた主人公だが、ジョゼをなかなか実家に紹介することができない。
実家についての細かい描写はあまりないが、彼の弟は、2人の恋愛を応援する、おおらかでさばけたロック兄ちゃんとして描かれている。
一度は「旅行」と称して、ジョゼを実家に連れて行こうと思い立つ主人公だが、車が実家に近づくに連れて迷い始め、心変わりを起こす。
それを察して、主人公を気遣ってか、それとも彼の言い訳を聞きたくなかったのか、自分から
「うちは海が見とうなった。海へ連れてけ」
と矛先を変え、泊まったラブホテルの、深海を思わせるイルミネーションの中で

うちはずーっと深海の奥深くでひとりぼっちでおった。別に寂しうなかった。ずっとひとりだったから。だから今更あそこに戻っても最初に戻るだけやからなんとも思わん...


けど、もううちはあそこには戻れへんのやろ。いずれあんたを失ったらころころころころ、海の中を貝のように転がるんやろ。

と、ひとりつぶやく。


そして主人公は、彼との失恋のショックで就職を棒に振ったモトカノに再会、同情して、今度はジョゼの元を去り、ヨリを戻す。
その間のプロセスには何の説明もなく、
「半年後」のテロップと、
「別れた理由は、まあいろいろ... だけど本当は、僕が逃げたってことだ」
「別れは意外とあっさりしていた。でも、僕はわかっていた。もう二度と、ジョゼに会うことはないということを。分かれた後でも友達になれるような女の子もいるけれど、ジョゼはそういう子じゃあない」
というセリフが入るのみ。


そして主人公は、モトカノの前でさめざめと泣くのだ。


web上には(本当は、プロの映画業界人にさえ)、こうした主人公のしおらしそうな告白に、まんまと(か、無意識を装いつつ、自ら進んでか知らないが)取り込まれた、「そうだよね、簡単じゃないよね、切ないよね」なんてお目出度い便乗コメントが溢れている(そこにはついでに、「人間らしくて、リアルでいい」なんて自己肯定もしっかり偲びこんでいる)。
アホか!
難しいことなんか、はじめから分かりきってるんだよ!!
こんな手軽な感傷で、現実に向き合った気持ちになられて、「帰れ言われて、帰るようなヤツは帰れ!」という哀願から突きつけられた覚悟を簡単に合理化できてしまうとは、どこまで便利でいやらしい神経してやがるんだ!


しかも、巧妙なことに、ふたたび「深海」に戻りひとり気丈に生きていくジョゼの、「諦念」を受け入れ、同時に外界に触れる希望や喜び(つまり、あんた方が無責任に信じたがっている幸福感やヒューマニズム)を否定しない強さを称える、という形で、すべてを彼女に押し付けて。


しかし、この映画はその表現を「誰に向けて」いるのだろうか?
ジョゼのような人をも対象と考えているなら、たいした面の皮だ。本当にいい神経してるよ。
もし、主人公の位置を観客の目線と考えているのならば、本当にこの映画が描かなければならなかったことは、主人公がジョゼとの生活に新鮮な興奮を失い、心変わりしていく過程(それが意識的な葛藤ゆえの重苦しさか、葛藤の無さゆえの酷薄さとしてかはわからないが)であり、先行きを予感しつつも、本心では彼が自分に留まってくれることを祈るジョゼが、徐々に疲れ絶望していく過程の細密な描写であったはずだ。


そうした、責任とか、重い脅迫をつきつけるという形ではなく、あくまでフラットに、現実や他者に触れる映画を作りたかった、という反論が聞こえてきそうだ。
ラスト、ひとり車椅子で街を走り、ひとりの部屋で焼き魚を焼くジョゼは、「初めて光に触れることで、気丈に強く生きていく姿」とも「またひとり、深海に取り残された姿」ともとれる。
感動するのも、感傷に浸るのも観客のお好み次第だ。
けれど、本当に他者に触れて、フラットな立場なんてものが、ありえるわけが無いのだ。
そして、それが嫌で「触れない」という選択の中に、すでに我々の「フラットでない」立場がある。
そこをきっちり突きつけ、また引き受ける覚悟を持ってこその「公平」じゃないか!


人にはただ、行為と覚悟によって保証しなければ成立しない関係というものがある。
それができないのならば、「絶句」することこそが、礼儀であるはずだ。




ちなみに、原作と映画で最もニュアンスが違っているのがラブホテルのシーン。深海のイメージの中で、籍の入っていない、祖母の遺骨もそのままの同棲生活を、ジョゼは世間の時間から切れた、中空にぽっかり浮いた非現実として「死ンダモン」と表現する。前に進もうとした瞬間、この幸せが無くなってしまうことを、ジョゼは(そしてこれを書いた時のお聖さんは)はっきりとわかっている。
けれど、映画の方には、この恋愛(そして外界への希望を持ち、触れたこと)が、ジョゼにとって「良かった」と言いたいというニュアンスが確かにある。
(だって主人公、ジョゼと別れた一年後には、平気で旅行中の写真を見て―しかもこれが佐内正史による、小洒落たアレで―、平気で気持ちよく感傷に浸ってるんだもんなあ...)
それは、この小説が書かれた時点よりも、現在の方が、差別や障害に対するハードルが低くなっており、完全に一夜の幻想であり、ジョゼにその先が無いと断じることも、それはそれでどこか違うという、状況への嗅覚も働いてのことだろう。
だから、浅羽氏が「流行神」で書いている、

「キュートでピュアな恋愛」と映画プログラムにある。とんでもない。ジョゼと主人公の関係は、世にもいやらしい浮世絵春画でおなじみのあれ以外のなにものでもない。メンタルな愛情など加われば、そのいやらしさはいや増す。

といったニュアンスは、原作の方に顕著に描きこまれている。
この原作を含むお聖さんの短編集は、現在よりも性や恋愛に対するハードルが高かった時代に、繊細でセンシティブな女性が自他の中の性欲やそれに絡んだエゴを過剰に意識する様子がテーマになったような、今となっては近過去だけによけい時代がかった印象を受ける短編が並んでいるが、浅羽氏の言いようにも、これとストレートにかぶってしまうような極端さを感じる。
特に身障者相手じゃなくても、性や恋愛にそうした落差が生むエロスが興奮の要素として含まれていることは当然だし、そのことをもって「愛は嘘」というのは、はっきり言って中坊並みの恋愛感じゃないか?
そして、例え相手が身障者であっても、本人の方にも無形の動機があるなら(障害は有形のものであるとは限らないし、むしろ無形の意識の方がよりタチが悪いものであることも多い、ちょっと脱線...)、共に守りあう必然性が持てれば、充分に成立可能だとも思う(もちろんその上で陰画として、それが崩れる場合を描く物語もあり得るのも当然)。
しかし、映画のような楽観を僕が持てるかというとそうではなく、中途半端な希望と、しかし、曖昧なだけ厄介になった断絶を前に、ジョゼはより不安定な立場を抱え込むことにもなる。


そこを引き受けるならば、こうした村上春樹的な省略というのは、いちばんやってはならないことではなかったか?
内面告白の欺瞞を廃する「描写」というのは、本来、こういう微妙さに対するためにこそ生まれたものだったはずじゃないか?


あの結末のために、それまでの描写の「細心さ」はすべて、他者を安全に処理してしまう為の、自己完結と正当化の「巧妙さ」へとすり替わってしまったと思う。