買い物途中のスーパーで

松田優作表紙の「ダ・ヴィンチ」を見つけ、衝動買い。
読者アンケート中心のかなり薄めの特集の中、美由紀さんのインタビューが出色だった。

特にシメのこの部分、非常に感銘を受けました。

複雑な環境に生まれてきたにもかかわらず、優作は、自分の中に夢を抱いて、それに対して、俺はこうしたいぞ、こうやって生きるんだって叱咤激励して自分を作ってきた。いつも自分を変えよう、変えようとしてきた。たとえば、育ちの悪い人特有の品のなさ、歩き方、食べ方、そういうものがあったとしても、それはひとつひとつ自分で気をつけて、調整し、直すことができると優作は言い続けてきた。優作はそういったひとつひとつの仕草が見事に綺麗な人だった。この人はなんて品格のある人だ、と私はいつも思っていました。品格や美しい仕草は環境や境遇で作られるのではないと、私は教えられたのです。自分の人生は自分で作っていくものなんだと。

年配のショーケンファンの人と話していると、よく「優作はしょせん原田芳雄ショーケンのマネ」という話になってしまう。影響は確かにそのとおりなんだけど、でも僕は、そうした先達や同時代のスターに愚直に憧れる優作が好きだ。
彼が活動した時代は、コンプレックスや飢えと裏腹の過剰さ、とことん熱くストイックな彼の資質をそのまま表現することが「無し」な時代だった。荒唐無稽なアクションや、甘い青春グラフィティ。クールでシニカルな軽み、心よりセンスに大きく傾いた時代だった。


最近ようやく読んだ『映画監督 深作欣二』の中では、「彼の仕事は全部変化球」と、端的に評されていた。
そして彼は、大きな社会状況という重しが失われて、個的なパーソナリティが表現のすべてになっていった時代、まさに愚直に全身全霊をこめて、軽みやシュールやディレッタントを演じきろうとした。
撮影所崩壊後の映画界で、必死に時代をうかがいながら一作一作自己プロデュースし試行錯誤した彼の姿は、後から見た時に、前後の時代の人々に比べ実はとても不自然で、そしてどこかちぐはぐでわかりにくいと思う。
敢えて言えば、時代の趨勢に確信犯で逆らって、彼が彼の資質を本当にストレートに全開にしたような作品って、実は1本もないような気がする。我侭に混乱しているようで、その混乱の仕方が実は凄く律儀だったと思う。
それをさせないくらいに時代は曖昧に生ぬるく、だから却って跳ね上がりを許さず不自由だった。


と、今でこそ、こんな偉そうに客観視した口がきけるけれど、生前の彼は僕達にとっては、正直ただただ怖いくらいに圧倒的な、本当にスペシャルな存在だった。
同情や共感なんてこと、まったく思いもよらなかった。
ただ、彼のどこまでも不器用(というのも完全に後付け)でまっすぐな、自分にも他人にも厳しい気迫に圧倒され、呑まれていた。
正しいか間違ってるかなんて、僕にはわからない。
ただ、僕にとって彼は永遠に格好いい。


それにしても「大都会part2」、何とかまた見れないものか...