泉麻人編『おすもうさんのおしり』(福武文庫)

相撲についての小文アンソロジー。趣味的に固め過ぎていない、緩くて自由で、けれど一編一編が粒立っている好アンソロジーだった。しかし、フラットであることがお洒落だった時代らしい、ストレートに柔らかさを主張するタイトルだけで、ズシンと手応えのある信頼できるもの(本に限らず)を求めていた若い頃の自分だったら、手が伸びなかったと思う。それ以前に、野球とか相撲とか、世の中の人たちが全員関心があって当然とされているものが、子供の頃から苦手だった。斜に構えて恰好つけているわけではなく、本当に、息が詰まるように苦手だったのだ。何より、家の者が野球や大相撲の中継を見ていると、自分が何よりも楽しみにしている…というよりもほとんどしがみつくように見ていたアニメ(5~6時は再放送、7~8時は新作の放送時間帯だった)が見られなくなることに腹を立てていた。
しかし、テレビ視聴が人々の共有体験たり得にくい世の中になってみると、そんな自分のような者さえ、前のめりになって意識的に選ばなくても、何となくみんなを緩く繋いでくれるものの在り方を、何だかおおらかに感じて懐かしいような気もしてくる。歌謡曲が広い世代から愛されるのも、同様の理由があるのではないか。
「ともあれ誰が日本という国のボスなのか、わからなくなった時代に、国民的スターが相撲の世界に君臨し、ああやっぱり相撲は日本の国技なのだーなんとなく妙にホッとした気分になっている平成四年の秋である」。こう書く編者は、この頃そうした気分をすでに感じはじめていたのかもしれない。
とはいえ、そうした飢えが高じて、人々が一体感を本気で(ヒステリックに、押し付けがましく)求め始めると、自分は途端にまたアレルギーの方が出てしまうのだが。盛り場は、ちょっと寂れているくらいの方が懐かしく、肌に合うのだと思う。

「上京以来、僕は、疲れた同世代ばかりを見てきた。全共闘で疲れた人、麻薬をやり過ぎて、また麻薬に高望みし過ぎて疲れた人々、同棲と痴話ゲンカで疲れた男と女、みんなが疲れて休みたがり、刺激のない歌や文学が氾濫していたのだ。うんざりだった。
そんな中北の湖は、まさしく光り輝いていた。巨体と抜群の反射神経を使っての取り口は、甘ったるくなく、何となく僕の中に滓のように残っていた敗北感を一掃してくれたのである。あの強烈なかち上げで先輩力士達を吹っとばすたびに、僕は、そうだ俺だってあいつらを吹っとばすことができる、と思えたのである。敗戦の後のフジヤマのトビウオみたいなものだった」
村上龍「僕のミーハー的北の湖恋歌」