覚え書き

尾崎仕事の最中だが、彼の死の翌年の夏に発表された吉岡忍『放熱の行方』(講談社文庫)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406273303X/qid=1079941216/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-3181248-6972303から、同時代の空気とディティールを背景に、彼を捉え直す作業の中で、かなり大きな示唆を受けている。


尾崎に対する言説にありがちな、ナルシスティックな賛美や同化はまったくなく、外側から単純化、矮小化したイメージを貼り付け貶めるような姑息さもない。深く密着して向き合った上で距離を取り、公正率直な批評が加えられた例というのが、尾崎に関しては本当にまれであり、特に、リアリティの足場を失って迷走し、ひとりよがりに孤立しがちだった後半の活動への批判はかなり辛辣で、発表当時は信者的なファンからかなり反発を受けた。
しかし、ファンの掲示板を見ていても、冷静な後続世代の一部には、予断なくしっかりと伝わっている印象を受けることも多い。
ルポルタージュという性格のため、どうしても、周辺人物へのストレートな批評が難しかったり、個々に関しては異論も少なくないけれど、それも、こちらの立場をより鮮明に深化する契機になっている。「共に模索する」ことへの前向きさを喚起してくれるようなニュアンスが感じられるのだ。


そして現在、どうして彼が過剰なまでに、陳腐な「反抗」のイメージを貼り付けられ、貶められがちなのか、というよりも、どうして彼の示そうとする共感や同情にほとんど条件反射的な過剰な反発を示す層が生まれ、膨らんでいったのか、それを生んだ背景が何かを掘り下げる時、これも吉岡氏の以下の文章が、ほとんどアウトラインは言い尽くしている感を受ける。


「自分以外はバカの時代」
http://www2.chokai.ne.jp/~assoonas/UC412-2.HTML

 この現実はやっかいだ。自分以外はみんなバカなのだから、私たちはだれかに同情したり共感することもなく、まして褒めることもしない。こちらをバカだと思っている他人は他人で、私のことを心配したり、励ましてくれることもない。つまり私たちは、横にいる他者を内側から理解したり、つながっていく契機を持たないまま日々を送りはじめた。―それがこの十余年間に起きた、最も重苦しい事態ではないだろうか。


不況、テロ、戦争、北朝鮮。どれもが現在のこの国が直面する難問ではあるが、自分以外はみんなバカ、と思い込む心性はそれぞれの問題を外側から、まるで大仕掛けな見世物としてしか見ないだろう。そこに内在する歴史や矛盾を切り捨て、自己の責任や葛藤を忘れて、威勢よく断じるだけの態度が露骨となる。


これに対する反響としてWeb上にupされていた仏教関係者の方の指摘、
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_B182.htm

私自身が感じるのは、情報の洪水の中で、自分を感情に入れずに、社会の出来事や周囲の人々を客観化することに、今の人は自然と長けてしまったように思います。
大げさに言えば、「総評論家状態」とでも言いましょうか。

これ、観念的な議論が飛び交い、ネタだのベタだの手前のプライドとポーズ取りにばかりはまりがちな、このはてな界隈などでこそ強く意識すべきことだと思うし、「「おかげさま」ということば」のリアリティを喪失させている社会背景、というところに、ここを考える大きなキーがあると思う。


個々の個人の人生の背景を見ようとし、そこから自分の視点を重奏化、相対化していく機会を持たず、観念や理念という普遍の側から、それを個々人にあてはめて切っていこうとするような(そしてそれですべてを把握していると思い込みたがるような)、インテリ(というタコツボ化された分衆)的視点が、人間観、世界観を単純化し、平板にしているという認識をあらたにした。