深作欣二と笠原和夫

bakuhatugoro2008-01-11



数年前に観た『資金源強奪』『やくざの墓場 くちなしの花』という2本の映画が、近年の自分の在り方に大きく影を落としていることは間違いない。


深作作品をはじめとする、70年代東映暴力映画の現在の受け取られ方を見ると、「綺麗ごと言ったって、人間ひと皮向けばエゴイスティックなもの。どうせ最後は一人なんだから、自由にやりたいことをやり通せばいい」といった、前者的なメッセージへの共感が圧倒的に強い。
自分自身、笠原和夫の仕事に注目する以前は、専らそうした猥雑なバイタリティを、世知辛く縮こまりがちな自分を鼓舞してくれる、乱暴な単純さという部分で愛好していた。
今現在も、半分はそうだ。


けれど悲しいかな、自分自身を含めて現実の人間は、そんなに強くシンプルに出来てはいない。
「やりたいこと」は自分一人では完結しない。
隣を気にし、空気を読み、群れをつくり、縛りあいながら、その中で少しでも良い場所を得るために権謀術数も尽くす。自分の都合をなるべく暈して皆の都合であるかのように喧伝する。
深作欣二の映画が、暴力に満ちてはいても陰惨ではないのは、その「誰もが勝手に生きて勝手に死ぬ」世界観が、人間が二人以上集まれば否応なく孕んでしまう政治性を取り除いた、一種のユートピアだからだ。
ユートピアならぬ現実に生きている弱い人間でしかない自分も、その世界に憧れ、眩しく思う。
しかし、自分がさも「そちら側」の人間であるかのようにその世界観に連なろうとすることは、自分の中の政治性を隠蔽し、また自分自身を目くらましする欺瞞だろう。
そうした反発もあり(勿論、自分自身の資質もあって)、自分は後者の、特に笠原和夫の思想や世界観の方により傾斜し、公私共に多くを語ってもきた。


例えば、「深町秋生の新人日記」http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080106で紹介されていたこちらの論文http://www.art.nihon-u.ac.jp/broad/books/pdf/vol5-6.pdfを読んで、笠原和夫の作品と発言を丁寧に追った考察に舌を巻きながらも、この彼にして結論が「個人を貫け」といった、通り一遍なところに収斂してしまうことに、現在のタブーと思考停止の根深さを痛感せずにはいられなかった。
含羞の人である笠原の語る、「馬鹿馬鹿しい掟やストイシズムに縛られて、挙句の果てはちっぽけなことに腹を立てて男だ仁義だとわめいて命を使い果たしてしまう社会の屑のウスラみっともなさ、それがウレしくて見にきてくれたのだと思っています」といった言葉を、言葉通りに受け取ってはダメだ。
『総長賭博』のラストで鶴田浩二が吐く、「任侠道? そんなものは俺にはねえ。俺は唯のケチな人殺しだ」というセリフを、唯、桎梏から解放された個人の本音とだけ読むのは余りにも浅はかだろう。
戦争中、しこの御盾として危うく殺されそうになりながら、誰もがあっさり平和と民主主義とアメリカ万歳に乗り換えてしまった苦い経験から、個人を超えるものを求める心を疑い反省しながらも、一方で、剥き出しの個人のエゴだけが溢れ、相も変わらず誰も現実に責任を取ろうとはしないことに憤り、個を超えるものを求めずにはいられない。
笠原和夫が求めていたのは自由だけでなく、それ以上に運命、宿命であったはずだ。しかし、神への信仰と忠誠を求める心を、弱さではないのかと疑い、恥じ、迷う。神も自分も信じられない、行き先のない二律背反。
そうした「自分の旗を揚げられない」内なる葛藤が、彼の脚本や多くのエッセイに滲んでいることを読み取り、個人の弱さと不確かさ、倫理と信仰なき世界を生きる人の哀しみの表現として受け止めるのが本当だろう。


しかし、今もこれからも、こうして生きていかなければならない以上、悲しんでばかりもいられない。
「社会」という一枚岩のフィクションは、これからも加速度的に失われて、僕達はまさに焼け跡闇市のような現実を生きていくことになりそうだ。
(こちらhttp://d.hatena.ne.jp/rmxtori/20071230/p1で読んだ音楽業界の現状なども、本当に他人事じゃない)
現実に流されることをただ正当化したくはないし、一方で感傷に流されたくもない。変化の因果と正否を冷静に見つめて、自分なりの見識を持てるよう慎重になりたいけれど、何よりまず生き延びなければならない。
自分のエゴを引き受けて、自由であることだけを頼りに、自分の場所を自分で切り開いていかなきゃならない。
そんな、決して生きることを諦めないバイタリティと厳しさをこそ『資金源強奪』から受け取り、個人的にはそちらの方をより自分に課す必要を強く感じている。


というわけで、未見の方は、今週末シネマヴェーラで始まる「焦燥・70年代・深作欣二」へGO!
http://www.cinemavera.com/timetable.html?no=33
(でも、『やくざの墓場』が入ってないのは納得いかんなあ...)


以下は奈落一騎君、ガルシアの首君による『資金源強奪』のレビュー。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20070601#p1
http://d.hatena.ne.jp/headofgarcia/20070606

おいどんで煮詰まったら『ワダチ』を読め!


大切な物を妻に捨てろと言われた - Aerodynamik - 航空力学
http://d.hatena.ne.jp/aerodynamik/20080110/p2


男おいどん』は捨てた方がいい
http://d.hatena.ne.jp/gotanda6/20080111/otoko


「【B面】犬にかぶらせろ」で紹介されていた、奥さんに『男おいどん』全巻を捨てるように命じられたという人の日記と、「おいどん」を読んだgotandaさんの感想。
松本零士のファンとして、これにはきっちり返答する必要があると思った。


まず、不器用で馬鹿正直なおいどんの孤独に共感している旦那を詰る奥さんの気持ち、半分は理解できます。
「負け犬」「社会的成功」といった言葉の使い方の、短絡的な薄っぺらさがどうにも引っかかるけれど、何かに馴染み慣れるため、それまでの自分の生活を変えなければならない時、けじめをつけるために何かを捨てなければならないってこと自体は、人間にはままあると思う。
自分も昔、堅気の仕事に就こうと考えていた時、一度、サブカル趣味を一切遠ざけなければ、甘えが残って本気になれないんじゃないかと思いつめたことがある。
自分の場合、結局、自分のこだわりを捨てきれないことを悟り、そっちを突き詰める方に覚悟を決めたけれど、それだって状況如何で、これからどう転ぶかはわからない。
昨今ありがちな、「ダメ」とか「ボンクラ」といった言い方で、互いを曖昧に甘やかして馴れ合うような態度は自分も好きじゃないし、自分の選択に責任を持つために、思い切りよく何かを割りきらなきゃならない時はあると思う。


そして、「おいどん」はじめ松本零士のマンガこそ、どういう方向であれ、そうした覚悟の厳しさとその大切さを繰り返し語ってきた。
少なくとも僕は、そう受け取ってきました。
そうした、ある意味融通の効かない頑固さ、誇り高さを、gotandaさんは「“九州男児の誇り”が邪魔をして、仕事も勉強も長続きしない。そして、まったく努力はせずに“いつかでっかい男に”などと自己だけは肥大させ、次第に何もできなくなっていき、どんどん周囲から取り残されていき、さらに焦りを募らせる」というふうに読まれている。
そういう否定面も、それ自体は理解できます。
けれど、多くの松本マンガを読んできた自分は、プライドばかり高くてすぐにポッキリいってしまうようなヤワな奴らだとは、おいどんたちのことを受け取ってはいない。
おいどん=大山昇太の子孫大山トチロー(彼は、親友キャプテンハーロックの搭乗する、宇宙最強のアルカディア号を作った)は、ひもじい時は、敵が地面に放った肉にむしゃぶりついてでも飢えを凌ぎ、生き延びていく雑草のような男として描かれている。
「おいどん」の姉妹編的な、『聖凡人伝』『大四畳半大物語』といった作品は、「おいどん」以上にストーリーも何もない、主人公が同様にだらしのない隣人達とグダグダたわいのないドタバタをやってるだけの話が延々と続く(「おいどん」は初の少年誌連載だった関係から、セックス込みの女出入りといった猥雑で楽しい部分が意図的に抑えられ、代わりにおいどんの孤独がストレートに強調されています)。そして、そうした「オチなしヤマなし」の毎日が、結構面白く読めてしまうところが、松本マンガの一番の個性であり、魅力だったりもする。
「心臓に毛が生えているくらいのヤツじゃないとこの世界では生きていけない」と、松本零士は文章でも、作品の中でも繰り返し語るけれど、彼の描くダラダラは「このままで良い」的な甘えや馴れ合いの表現ではなく、焦って自滅してしまわないよう、逆境を面白がってしまうくらいに神経を太くして、雑草のように生き抜けという、不遇な若者への応援なんだよ。
それに、おいどんが勉強を続けられないのは、高すぎるプライド云々よりもまず、生活が立ち行かない貧しさからだから。


それでも「おいどん」の結末がやり切れないという人は、少年マガジンで「おいどん」の次に連載された『ワダチ』を読んでみて欲しい。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20061110
おいどんの四畳半が日本沈没から逃げ延びて、宇宙に打ち上げられてサバイバルする、といった感じの作品。
おいどんと同じく、ワダチもブサイク、不器用だから、女からは軽んじられているし、彼女達は自分が窮地に陥った時だけ彼の好意に期待するが、状況が変わればあっさりと裏切る。
彼は、どうせそんなもんだろと思いながらも、やっぱりまた次も女に優しくする。
「結果については後悔すまい」と「武士は食わねど高楊枝」な態度を元気に貫く。
どうせ明日のことはわからないんだから、明日になったら考える。
とにかく、血となり肉となるものを食う。そして「明日のために今日も寝る」。
楽天性とバイタリティ、そしてそれを貫く「鋼鉄の意志」。
これが、負け犬の思想だとは、僕は全然思わない。
そして本当は、「負けたら終わり」と強張ってしまっている人にこそ、読んでみて欲しいと思っている。
ゴーラム!