「負けの不徹底」という問題

数日留守にしている間に、まっちゃんhttp://d.hatena.ne.jp/border68/20060128から「キャプテンとキッズ・リターン」の日記をご紹介いただいたんですが、その文章に深く共感。みなさんにも是非続けて読んでいただきたく、こちらからも引用させていただきます。

「ぶっちゃけて言うなら「努力は報われないし夢はかなわない」ことがふつうだし、飛躍すれば「戦争ばっかりやってる貧しい国に生まれてしまった」とか「歩道を歩いていたら突っ込んできた車にはねられた」みたいなことだって一種の「運命」というしかない。
その認識の上で「じゃあお前はどうするの?」という問いにどう答えるのか?」



「かつてキングこと三浦カズは「自分の夢がかなうかどうかはわからない」とした上で、「練習ができなくなったら現役を引退する」といったようなことを語っていた(テレビ番組にて)。
「練習をもっとリアルに、もっと集中して、集中力も技術も上げていく、それが自分にとってはあたりまえのこと。止まることは人生の中でない。それができなくなったときがやめるとき」だと。」



「スポーツって「大きなもの」との戦いの縮図だと思うのですが、そういう構図が見えなくなってきているのは、アスリートが変わったのか、客のリテラシーが変わったのか。
阿久悠さんのお話は野球だけのことじゃないなと感じました。
私は運動神経あまりないんですが、高校までは一応運動部でした(中学・野球、高校・陸上)。
それこそ吐くまで練習しても、地域とか都とかのレベルでさえ上には行けないということを身をもって味わって、それは勉強での挫折とかより大きく刻み込まれたものだったような気がします。
辰っちゃんのボクシングみたいに、文字通り地べたにはいつくばらされること、ああいう負け方をすること、あまり味わえなくなっているのかもしれませんね。
むしろ負けの不徹底ぶりこそが問題なのか。。。 」


三浦カズ辰吉丈一郎を見ていると、自分などが言うのもおこがましい限りだけど、同時代人として絶対に「敵わない」と感じる。
何かを「引き受ける」覚悟の座り方が、一般の人間と全然違う。



同じエントリやコメント欄で話題になっている「嫌オタク流」なんてのも、要はそこの「無自覚」と「誤魔化し」の問題だと思う。
かつての前田日明流に言うと、「底抜け脱線ゲーム」というヤツだ。



いずれにせよ、現在の自分にとっての敵は、物事の敷居を曖昧に低くしようとするもの(「キッズ・リターン」でのモロ師岡的なるもの)すべてだ、と、下北駅前で杉J映画の宣伝ごっこやってる、コンパ学生みたいに内向きに群れなして「ノボせあがった」半端業界人共を横目で睨みつつ、思った。