しがみついているだけのことを飾り過ぎていないか?

「今、私の関心は、長命にはない。ほどのよいところで、うまく死にたいのである。
私の父は九十七で死んだ。一部始終を眺めているが、死ぬ前のニ三十年は、うまく死にたいものだといい暮らしていた。その気持ちはよくわかる。老衰という死に方は、意外に楽でない。だんだん不自由になって、老いの哀しみを知りつくし、蝋燭の火のような意識を抱きながら、ぼろ布のようになって死ぬ。
大体、畳の上で、或いは病院で、大往生などという死に方にろくな死に方はない。事故死みたいな方が、一見むごたらしい死に方の方が、本人にとっては楽だ。
けれども、皆がそういうふうに死ねないのだから仕方がないのである。気に喰わないけれども、なるようにしかならない。
健康を保つために節制をするという考え方は、若い人のためのもので、中年をすぎてから、あわてて好きな酒や煙草をやめたりしている人を見ると、この人はいったい何を考えているのかと思う。健康を保てば死なないというのではない。五年か十年、先に伸びるだけだ。片づくものが片づかないというだけなのである」
色川武大「節制しても五十歩百歩」

そうは言っても、凡人は無駄にしがみついてしまうものだけれど、ただしがみついているだけのことを、あまり飾り過ぎるのもどうかと思う。きりぎりすのように調子のいいことを言い、実際調子よく生きてきておいて、体力が落ち先が心配になって保身と安楽に走っているだけのことをしおらしいように見せかけるのは、引退した途端に理想を口にするようになる政治家や、功なり名を遂げた年寄りが仏に縋っていたりすることと何も変わらないだろう。綺麗なことを言いたいならまず立派に生きようとするべきで、安楽椅子のような立場を決して譲らない自分を隠し、言い訳を飾り続けるのは単に小狡く欲が深いだけだ。