『母なる証明』

bakuhatugoro2009-11-29


僕には、とにかく韓国のお国柄や人情、歴史、風俗といったことへの知識がまったく足りない。
だから、たとえば『殺人の追憶』を観ていても、あのアバウト極まりない警察の捜査風景の描写が、どの程度リアルなものなのか、それともポン・ジュノ監督の志向(あるいは嗜好)によるバイアスがかかったものなのかが判断できない。リアルでシリアスなドラマと描写に必要以上に挟まれる、男たちの無意味な猥談や、安っぽい飲み屋での痴態、ねちっこいエロ描写なども、儒教道徳の強い国ならでは反動からきた破目のはずし方なのか、それとももう少しリアルな描写なのか、あるいはかつての日本映画にもありがちだった、もっとも安易に泥臭く「擦れた感じ」を演出しようとした(ちょっと内輪受けじみた)薄っぺらな趣向なのか、判断がつかないところがある。
ただ、彼のどの映画もそうだけれど、人が自分なりに現実を理解し、腑に落ちるための意味とか因果を、ナンセンスな偶然がぶち壊してしまう居心地の悪さそのものが、表現の核というかテーマとして共通していることは確かだと思う。作風自体も、耽美的な芸術映画、娯楽サスペンス、オフビートなギャグ映画といったジャンル区分を、そのどれでもあることでぶち壊してしまっているとも言える。そうした、本気で「世界そのものと向き合う」かの姿勢が、描写される韓国の田舎の泥臭さもあいまって、彼の映画は「不思議」「不可解」「不気味」だと、極端に過大評価されているところがあると僕は思う。
母なる証明』は、自分としては「普通に」面白い映画だった。というか、7.80年代くらいまでの日本映画には、こういう手触りの面白い映画っていくらでもあったよなという、どちらかというと懐かしい気持ちになる(みんなが口を揃えて言うほど「疲れる」映画だとも思わない。自分にとっては今のハリウッド映画の畳み掛けるようなテンポと音響や、日本映画のマンガ的に上滑った芝居や演出に、よほど違和感が強くていつも疲れる)。
ただ、彼の映画は即物的でナンセンスである分、人間関係の力学が描かれない。田舎を描いているにも関わらず、場の空気や力関係に縛られ、意識無意識になびく、人間の意識や行動が描写されない。けれども人は、ただバラバラに、ナンセンスに存在しているわけではなくて、やはり互いに意識し、関係しており、しかもそれぞれの視界や心の許容量は限られていて、間の悪い組み合わせやタイミングの運不運によって、因果で回収できない「現実」が生成されるというのが本当だろういうのが自分の考え方で、だから世評の高い『殺人の追憶』にしても、部分の描写がねちっこい割に全体としては散漫で、シーンの描写に執着してドラマを軽視する映像派監督の作品を観た時に近い感想を持った。


それに比べると、『母なる証明』は視点人物がはっきりしているので、知能に障碍のある息子を愛し、守り、(そうして生ていくことに耐えるために)そのことに依存してもいる母親の、自分で信じたがっている物語が、実はそういう「因果」を逸脱したもっとも身近な他者である息子に裏切られてしまうという理不尽な断絶が、こちらの胸にもストレート迫ってくる。人生を受け入れ納得するための因果律とか落としどころを失ってしまった人間に、合理的な救いを与えて帳尻合わせすることもなく、耽美的に理不尽を強調するだけでもなく、あの「踊り」と「光」の表現によって、それでもすべてを「流し」、あるいは「飲み込んで」生きていく人の強さと悲しさを表現して、一種宗教的な感触を残す(本当、最後のあれは踊念仏みたいなものだと思う)。
ただ、(イノセントであり、だからこそ残酷な)精薄の息子と溺愛する母親という構図が、リアルに身につまされる固有な手触りというよりは、わかりやすく象徴的でありすぎて、それが自分の好みには合わないところもあり、だから「普通に面白い」という評価に留まってしまうというのも正直なところ(むしろ散見される、母親の感情や行動に「謎」を感じるなんて感想の方が、僕には謎だ)。
ほんと、この映画に圧倒されてしまってるような若い映画ファンには、是非『TATTOO<刺青>あり』あたり、観てみて欲しいと思う。『レスラー』もそうだったけど、最近作り手、観客両方含めたシーン全体に、「生々しい表現」に対する想像力の弱り方を痛感することが多いんだよなあ…

TATTOO「刺青」あり [DVD]

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