斉藤和義「ずっとウソだった」に対する、いきものがかり・水野良樹さんの意見について

まぁ、びくびくして言えないのもなんか違う気がするしな。昨日はそれでもんもんとしていたけど。俺は斉藤和義さんの音楽が大好きだけど、「ずっとウソだった」は大嫌いだよ。


自分の主張を保身することなく自分の方法論でまっすぐに発信するという行為に対する賞賛と、主張そのものに対する是非は、別に議論されるべきことなんじゃないかなと、僕は感じているんです。その混同は、いたずらに”正義”を生むだけなんじゃないかなと。すみません、まだ整理できていません。


(1)そもそも僕は音楽に政治的な主張、姿勢(斉藤さんの場合は、怒りでしたが)を直接的に乗せることについて、とても懐疑的な人間です。


(2)いや、もちろんそもそもある一定の範囲の音楽が、政治的な主張とともに成り立ってきたというのは頭では理解していますし、自分が作った曲も、すごく広範な視点で見れば、それらと同類の恣意性を放ってしまうということからは逃れられません。


(3)「お前は愛だ、恋だを歌っていろ」と言われましたが、愛だ、恋だを歌っていても、愛の意味付け、恋の意味付けには、遠巻きには関与してしまうわけで、それは、政治という言葉が持つ一面的なイメージとは違うかもしれませんが、世の意識に関与するという意味で、政治的なことです。


(4)本来、自分が身を懸けるポップミュージックとは、あらゆるものに対する世の価値意識に、直接、間接を問わず、意識的、無意識的を問わず、影響を与える宿命性を帯びていると、僕自身は感じていますし、そこを信じて「愛だ、恋だ」をつくっていたりもします。


(5)そのことは自認しつつも、かといってすべてあきらめて、自分の主義主張をマジックで太字で書くように音楽に乗せるかというと、そういうことでもなくて、つまりは1か0かの話ではなく、どこに立ち位置をとるかということだと感じています。


(6)音楽にあからさまに主義主張を乗せることが、本来複雑な因子が絡み合って構成されている問題を、むやみに単純化する危険性について危惧している。歌詞というスキームで言えば、限られた字数で伝えられることでどうしても生まれる誤解曲解が音楽の特性ゆえに作者の意思に反して広範化してしまう。


(7)それらが、おおざっぱに言えば、僕が”そこ”に踏み込みたくないなぁと感じている理由(言い訳)のいくつかです。それを弱虫だ!と言われれば「その通りかな」とも思いますが「主義主張のない人間だ」と言われると「うーん、そうか?」と思います。


(8)そんな風な人間が、斉藤さんの「ずっとウソだった」という曲と、それを受けての現象を見て感じて直感的に思って放った言葉が「大嫌い」だったわけです。軽卒きわまりないと言われればその通りです。


(9)またこれは狭い範囲の世界での話ですが、己の何倍も長い年月、身を表現の世界におかれている方に対して(先輩後輩なんて表現の世界で関係ない!というお叱りも受けましょうがそれとは別に)敬意を欠き、未熟な自分の立場をわきまえぬ奢った不遜な言葉であったことは、大変反省しております。


(10)身を顧みず、自分の怒りを表現された行動に対しては、強い敬意を持っています。また、その行動そのものを押しつぶそうとするものがあるとするならば、僕は、音楽という方法論をとるかは別として、斉藤さんと同様に、怒りを表明します。有り体に言えば言論弾圧は、最も嫌うものです。


(11)ただ、あの曲と、あの曲を受けての諸手を挙げた賞賛の嵐が、専門家でも意見の分かれるような高度で複雑な因子が絡む問題を、単純化してしまう危険性が垣間見えたこと、そしてそれを指摘する者への(語弊はありますが)逆圧力のようなものを感じたこと。


(12)それが、ぼくが「大嫌い」と非常に子供臭い、感情的な発言を発してしまった、背景の大きな部分です。しかし「大嫌い」という曖昧な発言が、自分が危惧していた物事の単純化を助けることについて、配慮が足りませんでした。この部分は情けないとしか言いようがないです。お詫びします。


(13)また、青臭いと言われることかもしれませんが大事なこととして、僕は単純に「ずっと好きだった」が大好きでした。斉藤さんのライブを見させて頂いたことも何度もありますし、実際にお会いしたときのお人柄も素晴らしい方でした。たぶん斉藤さんは僕のこと覚えてないと思いますけど(笑)


(14)単なるいちファンとして(お前なんかファンじゃねぇと言われればそれも謹んで甘受)斉藤さんがあのような行動に出なければならなかったことは、切ないな、悲しいな、と感じたことは偽らざるところですし、それを「好きだ」と表明するのも違う気がするというのも本音です。
(あ、ちゃんと、書き加えますが、もちろん、あのような行動をとる斉藤さんこそ(主張内容の是非は別にしても)好きなんだ、あれこそ自分の思う”斉藤和義”だ!という方も、大勢にいらっしゃる(むしろ大多数な)わけで、そこは否定するうんぬんの話ではありません。)


(15)むしろ無関心を通すこともできたわけで、それは斉藤さんに失礼かなと思ったのも、素直な気持ちのなかにはあります。ただ仮にも音楽を生業としているものとして、そういう気持ちだけを理由にすることもできません。音楽を生業としているからこそ、前述した理由も提示しなければなりません。


(16)以上が、だいたい、自分の頭で整理して、考えてみたことです。文章のつたなさゆえ、説明しきれていないこともあるでしょうし、単純に考察が甘いところもあるでしょう。リプライはすべて読ませて頂いております。ご批判、お叱りは、たくさんおありでしょう。謹んで読ませて頂きます。


(17)「音楽家ならば、音楽で返せ」とのお言葉もありましたが、前述しているような理由で、結果的には返すことになるでしょうが、斉藤さんのような方法論で返すことは、僕は致しません。それを”逃げ”と言われるのは、ご批判もありましょうが、「違う」と思うのが、僕の今です。


(18)まぁ、こんなにぐだぐだと語る奴は野暮だな、というお言葉。他人の表現について、うだうだと語る奴は野暮だな、というお言葉。は、まさしくその通りだと思います。返す言葉もありません。野暮です。野暮ものがかりの水野です。


(19)ですが、この未曾有の震災のなか、音楽をつくるものが、自分の音楽をどのようなかたちで捉えるか(もしくは使うか)を問いかけられている今、斉藤和義さんの行動に対して無関心であることはできませんし、それを「大嫌い」と言った自分の背景について自分で考え直さないわけにはいきません。


(20)そのうえで、うだうだ語るのが必要だなと思って、僕は、うだうだと語っています。まとまりが、つかなくなってまいりましたが、そんな感じです。長くなりすぎてしまいました。


http://togetter.com/li/122633

上に引用したのは、いきものがかりのメンバー水野良樹さんによる、斉藤和義「ずっとウソだった」に対する違和と、その理由を説明するツイートです。
意見の相違する相手への礼節と配慮が行き届き、しかしあくまで正直、誠実な立場表明だと思う。
自分はこれまでいきものがかりを、昨今のステレオタイプなJポップのひとつくらいにしか見ていなかった(むしろ「ゲゲゲの女房」の主題歌など、人生の無常や暗部に光を当てたドラマの襞を押し流される気がして、やや逆恨み的に嫌っていた)ので、正直、丁寧に重ねられた言葉と気骨ある態度に驚き、意外に感じました。不明を恥じます。


彼が最初のつぶやきをして以来、反原発の人や斉藤和義ファンによる揶揄、悪罵の酷さは、目に余るものがあった。
そして、水野さんがこれだけの言葉を重ねて尚、「音楽から政治を排除している」「日常の中の政治性に無自覚」といった大声で押し流そうとする態度が散見される。


僕は、辛辣、狭量な批判を、有事における危急の行動として無闇に正当化してしまうことを、今、何よりも気をつけるべきだと考えてきました。
慌てたり不安定になったりしている人や、他人を脅してここぞとばかりに持論を押し付けようとする者の悪罵に感化されて、こちらまでミイラ獲りがミイラになる不毛は避けたい。
けれど、こうした「個」を引き受けた柔らかい声が、1オクターブ上ずった集団の声(それは、大声の悪罵や脅しだけでなく、冷静客観をを装って、その実物事を暴力的に割り切ることを促し、正当化するような言動も含む)に踏みつぶされてしまうことには、我慢ならないと思った。
「今、この時期にこの発言は、敵(原発推進派)を利することになる=無自覚に原発推進に加担している=おまえは政治的に原発推進派だ!」という三段論法。
これは、かつて旧弊な左翼が乱用していた、個々人が恥じながらも持たざるを得ない保身を、暴力的に押し流そうとするやり方そのものじゃないか。


誰の中にもある分裂や、保身の後ろめたさへの攻撃を、問答無用の「公の正論」ぽく粉飾してごり押しする、自分の欲望(と、他者のそれとの落差)を棚に上げた卑怯な振舞い。
こうした自称リベラリスト達の言動は、比喩でも何でもなく、ストレートに「ファシズム」(あるいは「スターリニズム」)と呼ばれるべきものだと思う。
戦争中、「この非国民め!」と他人の髪型にまでケチつけて回った連中や、あさま山荘連合赤軍の醜態と何も変わらない(知らない若い人は、検索してみてください)。
こんな乱暴な振舞いで脅しておいて、「日本人は政治をケガレだとタブー視している!」と平気でうそぶける、傲慢と無神経が我慢ならない。


「おまえは現地の人々の苦しさを考えないのか!」という恫喝もそう。
平和の中では隠れているけれど、様々な立場を一つにまとめる「政治」というのは、根本的に暴力的なものだし、利害対立が露わになる怖くて切実なことだからこそ、多くの人は日常みだりに口にしない。
勿論、多くの人の命や社会生活の維持に関わるような危急の場合には、それが必要悪である自覚を持った上で、特例であることを警戒しながら、行動に移さなければならないこともあるだろう。
けれど、現在危急の行動は、避難や放射能のチェックや被災者の救援や原発の冷却であって、他のすべてに優先して反原発を叫ぶことじゃない。
そしてこうした態度の問題が、震災や原発事故の重大さに比べて、些細な問題でしかないとはまったく思わない。
被災地と東京以西では、この状況の感じ方に大きな落差があるし、もっと言えば、被災地の人同士、それ以外の人同士の間にも、無数の立場や感じ方がある。それにどう向き合っていくかが、これから大きな課題になる(更に言えば、それは決して今回の震災に限ったことじゃない。こうした理不尽な運命とその不平等は、常にどこにもある。今はそれが数の問題で可視化しただけであり、厳しく言えば、今更のようにそれに驚くということは、今までそれを見つめることを怠っていたということではないか)。


自分も、地元に多大な危険とリスクを背負わせる原発は、今後無くしていく方向に梶を取るべきという意見だし、それを契機に惰性的な経済拡大路線から一歩引き、貧乏を受け入れた上でコミュニティの再建と生活の知恵でやっていくべきだと思っている。
けれど、それこそ各々の生活がある以上、いきなりゼロかイチかを選択できるようなことじゃない。
そしてその時、震災以降正義を言いたてる人々に散見されがちな、「目的のために手段を選ばず」という姿勢に、到底同調できない。
生きる手段である刻々の姿勢は、ただ未来の目標への過程ではなく、そのまま「人や社会の価値」そのものだと考える。
敢えて極論を言えば、簡単に「自省」を吹き飛ばすことを正当化し、安易に扇動したり扇動に乗ったり、敵や悪を設定する事で迷いや葛藤を押し流してしまうくらいなら、「自省」を貫いた結果滅びたとしても、それを自分たちの限界として引き受ける方が美しいと思う。

「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」小林秀雄


断わっておくと、これは斉藤和義さんや歌そのものではなく、水野さんを卑怯な悪罵で中傷、恫喝した人々への批判です。
正直、「ずっとウソだった」自体には、良い悪い以前に、まったく心の針が触れなかった。
ただ、「自分をどこに置いているのか」「誰に向かって物を言ってるのか」わからない軽薄さが好きになれなかった。
好意的に見れば、極端に敷居を下げた単純さに徹して、確信犯でプロパガンタしたかったのかなとも思ったけれど、その是非をことさら口にする程の力も感じなかった。
そして個人的には、政治的な歌を歌うにしても、今回の水野さんの言葉のように、たとえ重く、鬱陶しくなったとしても、分裂や葛藤を引き受けるやり方の方が好きだ。
ただ、今回の斉藤さんや、例えばかつての清志郎タイマーズ)のような、無責任な軽みを引き受けた「毒舌の道化、幇間」のような芸能はあって良いと思う(斉藤さんに対する「代案もないくせに」といった揶揄も散見されたけれど、音楽家(或いは芸人)に対して、野簿の極みとしか言いようが無い物言いだと思った)。
ただ、それがどう受け入れられるかという計算やバランス感覚を含めて、評価や批判もなされてしかるべきだし、今回の水野さんのような「扇動の結果」に対するものを含めての嫌悪もあって当たり前だと思う。


こうして発言をブログに記録し、話題にすることで、おそらく議論に拘泥することは本意でないだろう水野さんには、或いは却って迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、今回の彼の態度は広く知られ、賞賛されるべきものだと思うし、彼に対する多くの人々の態度のまずさも自覚され、深く戒められるべきものだと考え、野暮を書き連ねてみました。

伊丹万作『戦争責任者の問題』 福田恆存『私の幸福論』所収「自由について」(15日追記)


伊丹万作『戦争責任者の問題』
http://anond.hatelabo.jp/20110413222428

「だまされた」と平気でいうひとたちは戦争中はまだ子供で自分が確立されていなかつたから「だまされた」のであり、今日は、自分が確立できたから、その「だまされた」という事実に気づいたというのでしょう。そして「だまされた」自分は自由でなかつたが、それに気づいたいまの自分は自由に眼ざめているとでもいうのでしよう。そんなことはありません。そういうひとたちは、自分というものに、また自由というものに、この二つの新しい幻影にだまされはじめただけのことです。


こうして「だまされた」をくりかえしていたのでは、私たちは、生涯、永久に自分の宿命に到達できません。顧みて悔いのない生活はできません。さきにもいつたとおり、私たちの欲しているのは、いわゆる幸福で不自由のない生活ではなく、不幸でも、悲しくとも、とにかく顧みて悔いのない生涯ということでありましよう。あとで顧みて、いくらでも書きかえのきくような一生を送りたくないものです。


もちろん過去のあやまちを認め、これをただすのはいい。なるほど部分的には、そういうことも起こりましよう。しかし根本的には、私たちは私たち自身の過去を否定してはなりません。どんな失敗をしても、どんな悪事を働いてもいいから、それが自分の本質とかかわりがない偶然のもの、あるいは他から強いられてやつたもので、本来の自分の意志ではないというような顔をしないこと、自分の過去を自分の宿命として認めること、それが真の意味の自由を身につける第一歩です。自分の過去を否定し、それをまちがいだつたといつて憚らぬのは、結局、自分の出発点を失うことになり、未来の自分も葬り去ることになります。宿命を認めないことは、自由を棄てることになります。


自由と宿命の関係は大変難しいもので、私には、多くのひとが思いちがいをしているとしか考えられません。今日、自由平等を強調するひとたちは、やりようによつては、人間にはなんでもできると思いこんでいる。十九世紀の末、一度、行きづまりに陥った自然科学も、最近では原子力の利用によつてふたたび活気づき、それに社会科学の発達が結びついて、人々は人間の未来を前途洋洋たるもののようにおもいがちです。が、これは明かに錯覚です。自由には限界があるばかりでなく、その限界がなければ、私たちは自分が自由であると感じる喜びさえ、もちえないのです。この限界をとりはずしてしまうと、自由は自由ではなくなり、苦痛となります。無際限の自由は、じつは自由そのものによつて、邪魔者とさえなるのです。


私たちは出発点においても、終着点においても、宿命を必要とします。いいかえれば、はじめから宿命を負つて生れて来たのであり、最後には宿命の前に屈服するのだと覚悟して、はじめて、私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができるのです。そうしないで、いたずらに自由を求めてばかりいると、落ちつきのない生活を送らねばならなくなります。みんな神経衰弱に陥つてしまいます。神経衰弱、あるいは現代の流行語でいえばノイローゼというのは、自分を操る術を失うことです。なんでも操れる自由をものにしようとしたため、自分自身が操れなくなるという奇妙な結果に陥るのです。
福田恆存『私の幸福論』所収「自由について」より

伊丹万作エッセイ集 (ちくま学芸文庫)

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私の幸福論 (ちくま文庫)

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