赤灯えれじい東京物語

赤灯えれじい』連載終了後、ヤンマガ誌上で断続的に発表されていた、サトシとチーコの過去や後日談を描いた番外編が1冊にまとまった。単に物語を読むということを超えて、彼らには同時代を生きる隣人という親しさを感じるので、何だか久しぶりで友達に会うように嬉しい。


今、この時代に、当たり前に働いて食ってる若者(及び、決して経済的に恵まれているわけではない、周囲のさまざまな世代の人々)にとっての「幸福」を、手前味噌な視野狭窄も、無理矢理な陳腐さも感じさせず、それこそ「当たり前に」描ききってみせたという一点で(そして、その幸福を読者に体感させる力おいて)、『赤灯えれじい』は掛け値なしの大傑作だと思う。
こうした題材やジャンルの作品が好みではなかったとしても、単純に人間関係の機微や、現在の日常のディティール、特に不器用な人間が間の悪さ故に抱え込む諸々とそれを超えさせるものの在り処を、、あれだけ端的、絶妙に切り取って、それを突き放しすぎず、シリアスにもなり過ぎず、温かくておかしいコメディとして描ききった力量だけで、どれだけ評価されてもされすぎということはないはずだ。


ところが、いわゆる読者家の世間で、なかなか『赤灯〜』の評判を聞くことがない。
このブログでも何度か取り上げているが、他の作品に比べて、周囲からもほとんど反応を貰えないし、『赤灯』を取り上げた活字のマンガ評論もまったく見かけない。
このマンガのスタンスが、大向こう受けを狙ったセンセ−ショナリズムとは無縁の、誠実で地に足のついたものだから、単純に目立ちにくかったということもあるが、一方で評論を読んだり書いたりするようなタイプの人間は、自分も含め視野や意識が無駄に「俯瞰的」になりすぎるという、読む側の問題も大きいと思う。


「物事を客観的に見る」というと聞こえが良いけれど、余程の社会的な要職に就いているような人間でない限り、大抵のことにおいて一人の人間が選べる選択枝も、何かを成し遂げるための気力も体力も時間も限られている。
けれど、ネットにテレビとこれだけ情報に囲まれていると、どうしてもうまくやってる他人の成功や、社会の不愉快な荒廃の様子が日常的に目に入る。目に入れば入るほど、無力感が募る。
取り囲む世の中や人間関係自体も、昔のように堅苦しくない代わりに緩くて頼りないから、油断すると取り残されてしまうし、ちょっとしたはずみで歯止めなくだらしないことになったりもしやすい。
が、たとえそうだとしても、まともに生活している人の多くは、浮世離れしない程度に世の動きに合わせながら、大抵のことは話半分に受け流し、目の前の日常に集中する。
『赤灯』は、世を俯瞰して虚無的になったり、感傷的になったりする余裕などない、何とか自分にできることを探して、必死に現実にしがみついていこうとする生身の人間を共感を持って見つめているから、切実でシリアスだけど暗くならない。
この人生をナメてない、引き締まった感じが、とても現代的で好きだ(細々とした心の読み合いに拘泥したり、逆にダメさに酔って厭世的になるような志向性って、実はバブリーな感覚の裏返しだと思う)。


かと言って、『赤灯』の登場人物達が、みんな「ちゃんとした」生活をしてるってわけじゃない。
主人公のサトシとチーコは、2人して忙しくしていることもあって、ほとんどコンビニ弁当しか食ってないし、サトシの高校時代の悪友二人は人妻との不倫にはまったり、オナホールミシュラン(笑)のホームページを作ったりしている。
サトシはウェブ制作会社の浮き草のような契約社員で、出張先では寝袋で過ごすような暮らしぶりだ。
目の前の仕事が、なかなかキャリアとして結びつかない。先のある仕事に就くためには、恋人と離れることになるかもしれない。
先の分からない不安定な状況の中で自立しようともがき、誰かと生きていくと腹を決めることでお互いを支えあう。
不確かさゆえの緊張感と、それを支えようとする骨太な優しさ。生き延びていくために考える柔軟さ。ほんの些細なことだけど、それを持てるかどうかに幸、不幸の明暗があり、そこでだけは彼らは必死に頑張る(「これが現実だ」と言った途端に嘘になるのが現実で、負の断面を並べ立てるだけで、一方に「それぞれの限られた状況の中でも掴める幸福とは何か?」を本気で考える姿勢がなければ、片手落ちだと思う)。
現在の生活人を描きながら、サトシやチーコの暮らしぶりは、ある意味かつての庶民以上に愛おしく、そう思えること自体に僕は希望を感じる。


ともかく、生活人のまともなバランスで書かれ、まともな人たちから愛されるまともなマンガが、まともさゆえに評価されないという事態は、どう考えたって歪んでる。
闇金ウシジマくん』や古谷実、あるいは浅野いにおよしながふみに「現在」を見ているような人たちには、是非『赤灯』を読んで深く深く反省していただきたい。
ヤンマガで連載中のきらたかしの新作『ケッチン』も、内気な高校生とヤンキーの幼馴染み達が初々しくて、これからが楽しみ。

赤灯えれじい 東京物語 (ヤンマガKCスペシャル)

赤灯えれじい 東京物語 (ヤンマガKCスペシャル)

7日追記

http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090705
是非、上の『赤灯えれじい 東京物語』のレビューと合わせて読んでいただきたい、「深町秋生ベテラン日記」より衝撃の力作論考。

現代日本でも核家族化に歯止めがかかり、派遣労働の是非が問われるようになっているが、竹下家は本来人間が生き残るために必要だったはずの、そうした縁なるものを全部破壊して回っている。そういうことをしても生きていけるという勘違いを生んだのが戦後の時代だったと思うが、90年代からの田舎暮らしブームに乗って、なんの地縁もない北海道の極寒の地にひょいとやって来ては、さんざん迷惑とローンを残して埼玉へと戻っていくところがいかにもな感じに見えた。

しかし竹下夫婦がすごいのは、信念や宗教や哲学というものが最後までからっきし見えてこないところ。唯一、なにかがあるとすれば、それは「消費」だけなのだ。たぶんこのあたりが番組を見た人間を驚愕させるポイントだと思う。狂信的キリスト教原理主義者を映した「ジーザスキャンプ」を見たときと似たようなショックを覚えた。狂信的消費原理主義者の生態を見たというか。

非常に鋭い分析だと思うし、まったく同感。
ただ、この種のドキュメンタリーを見ていてしばしば感じるのは、製作者ががどういう意図を持って望んでいるのか、どうしたいのかが見えないことについての疑問。ドキュメンタリーが作り手の主観に基づいていてもいいし、そうであって当たり前だとも思うけれど、逆に「事実」を隠れ蓑にして語り手の主語が抜けていることに、いつも欺瞞を感じる。
彼らが取材対象に対してどう関わったのか、あるいは関わらなかったのか。
データや統計を元にしたルポや論文などにも、同様の疑問と反発を感じることが多い。


上の日記のブックマークで騒いでいる人にも(論考自体は力作だと思う一方で)、安易なDQN(この言葉を安易に使う人間の品性は、心底低劣だと思う)蔑視で騒ぎたがってるような嫌らしさ、ネタを「消費」する人間の高慢さを感じたので、是非そこに『赤灯』を対置して読んでみていただきたいと思った。
この作品には、不確かで限られた状況を精一杯生きる人たちにも確かにあり得ると作者が考える「幸福」が、しっかりと提示されていたと思うから。