『新 悪名』(62年 監督森一生 脚本依田義賢)とアプレと新自由主義

bakuhatugoro2007-02-09


兵隊やくざ』シリーズに続いて、今度は立て続けに『悪名』を観ている。時代劇専門チャンネルの「サンデー座頭市」も合わせて、CSのおかげで勝新月間って感じだ。これが終わると週一回のお楽しみがなくなって寂しくなるなァ...


『悪名』の八尾の朝吉は、喧嘩は強くてやんちゃだけど、根が純情で徒党を組んだ権力や金儲けが苦手という、『座頭市』や『兵隊やくざ』に比べると、ストレートに古き良き時代劇や任侠ものの主人公風のキャラクターだから、現在の自分たちの感性からすると清濁併せ呑んだ汚れっぷりが良いアクセントになってる前者にくらべて、どうしても生々しさに欠けるところがある(「やんちゃ」がはらむ「エグさ」や「しょうがなさ」がスルーされすぎていることも、今となってはきれいごとに見えすぎてしまうところもある)。が、第三作『新 悪名』は、敗戦直後の価値観の混乱という背景がかなり生々しく描きこまれて、その中に朝吉親分が放り込まれることで良い具合に緊張感が生じている傑作だった。


戦争から復員してきた朝吉は、前作で出征した自分の身代わりになって死んだ、田宮二郎扮する弟分のモートルの貞に代わって、年老いた母親を徳島の田舎に迎えに行くが、掘っ立て小屋で乞食のように暮らす母親はなかなか心を開かない。何とか説得して自分の実家に連れてくるものの、農家の部屋隅である朝吉のその行動は親族に煙たがられる。「気持ちはわかるが、今はそんな人はいくらでもいる。他人の親の前に自分の親の心配をせんかい!」 そうしているうちに、戦死した幼馴染みの妹月枝が進駐軍に強姦され、そのショックで彼女は出奔してしまう。が、既に息子を戦争で失って力を落としている独り暮らしの父親の反応はそっけない。このあたり、田舎の人たちの淡々と寒々しい諦念が、さりげなく芝居に盛りこまれていて、ドラマの重しとして効いている。
そして朝吉は、「焼け野原のどん底で、戦争に痛めつけられた人間と同じ釜の飯が食いたい」と、貞の母を連れて再び大阪に出る。そして、釜ヶ崎でパンパンになって米兵の袖を引く月枝を見つける。月枝を無理やり連れ帰ろうとする朝吉はパンパン仲間たちに取り囲まれて立ち往生、さらに彼女たちを取り仕切っていたのは貞の弟清次だった。戦後の価値の混乱の中でアプレになっていた清次は、契約を盾に月枝を売り飛ばし、朝吉を「喧嘩は強いが頭が古い」と侮る。カーキ色のよれよれの軍服を着た朝吉と、長い手足に革ジャンと赤セーターを着込んだ清次のコントラストが見た目にも鮮明だ(オーバーアクションで、忙しなく機敏に動く田宮二郎が、またバツグンにはまってる)。


清次はあこぎに稼いだ金を、マーケットを仕切っている三国人の親分に上納し、闇市解体後の土地利権の一部を得ようとしている。一方朝吉は、持ち前の任侠精神で、闇市の人たちや底辺の三国人の人望を集めていく(このあたりも、出来すぎたお話だなァと思いつつも、勝新のあの憎めない陽性のキャラクターもあって、三国人の友達の為に飲めない酒を無理に飲むシーンあたりにはやはりグッとくる)。
金と法律と契約を盾にのさばる新興ヤクザのやり口に遂に我慢ならなくなった朝吉はもう一度やくざになることを決心、月枝を助け出す。そして、闇市を立ち退かせて歓楽街にしようとする三国人や新興やくざに対し、闇市の人たちを纏めて対峙する。ボスに利用され使い捨てられた清次も結局これに加わって、やくざを撃退しマーケットの自治を守る。


任侠精神のある古風なやくざとあこぎな新興やくざの対立という構図自体は任侠映画の定番だけれど、テンポのいい演出とリアルなディティールを随所に効かせた脚本、そして何より勝新というスーパースターの持つ陽性の魅力によって、全然古さや退屈を感じることが無かった。
むしろ、作品のディティールや構図自体が、現在の新自由主義による地方の荒廃や、なしくずしで寒々しい個人主義に、驚くほどそのまま重なって生々しく、しかも勝新のようなスーパースターが最早あり得ないだけに尚更眩しく爽快で、同時にやがてその寂しさが沁みた。


自分達は映画を観ている間勝新の朝吉親分に共感し、喝采を送っているけれど、実際はアプレやパンパンたちのように時流に流され便乗し、長いものに巻かれながら生きている。ネオリベ改革の過程でホリエや村上が象徴として消費され、やがてそれが空気のように世に定着すると、清次のように使い捨てられていったように。朝吉親分が体現した、共同体を基盤とする義理人情は、市場原理や個人の自由にとって邪魔な厄介者になり、建て前化した揚げ句、共同体の消失と共に忘れられ、絵に描いた餅のようになっていった(勿論、実際にかつての共同体を覆っていた鵺のような腹芸の世界は、朝吉のように清潔でも爽快でもないことは、今も昔も変わらないのだが)。
このテの映画において、『悪名』のような「お話」の安定感を破壊したのは、かの東映実録路線だったけれど、そこには仁義も正義も無くなった「やった者勝ち」な世界の痛みと寒々しさと苛立ちとが刻まれてもいた。けれど今や、はじめからバラバラで、自分の小さな快楽以外の価値を知らない、派遣やフリーターで保証の無い日々を送りながら自由の安楽さの中で一日中ネットに中毒してるような人たちに、そうした怒りがあるとは思えない。本来ある筈の怒りや不安を、刹那的な快楽や小さな差別で誤魔化して生きざるを得ない人たちこそ『新 悪名』を観て欲しい、そして彼らに向けて、再びこうした映画が本気で作られて欲しいと思う。
現実の俺達は、どうしたって朝吉親分のように清廉ではあり得ないし、アプレやパンパンのように開き直りながら生きていくしかない。でもだからこそ、欧米人のような神や倫理を持たない我々は、共同体的な情を完全に見失ってしまったら、ただ状況になし崩しに流される、一粒一粒バラバラな砂粒になってしまうような気がする。例えそのことで不安定になっても、この両方の自覚を忘れてはいけないと思う(そうじゃないと、単にバラバラになっただけで、本当は相変わらず無基準なお人好しで、その場の空気に流されやすい自分達のマズい部分も同時に見えなくなってしまうとも思う)。




今回あらためて『悪名』を見返していて、『ガキ帝国』以下の井筒和幸の不良映画への『悪名』の影響の大きさを再認識した。実録路線やニューシネマを経由した『悪名』の変奏なんだなと思った。

悪名 DVD-BOX・第一巻

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