かぐや姫の物語

15日新宿ピカデリーにて。
大変な創意と手間と資金が注ぎ込まれた力作、野心作であることは重々承知の上で、正直な感想を言えば、「生きる手応えさえあれば!」というかぐや姫の科白に反し、何ら心に強い手応えを残さず、淡く流れすぎて行ってしまったような、肩透かしを喰ったような印象、ということになってしまう。


理知と思想の人と捉えられがちな高畑勲監督だけれど、僕は根本的には情念の人だと思っている。強い情念があってこそ、あれだけ冷徹に人間を見つめ、負の部分も含めて徹底的に寄り添い、生きる痛みごと観客にぶつけるようなこともしばしばしてきたと。
情念が求めるものに形を与えるために、思想や知識、ディティール、方法論を総動員する。けれど、それが過ぎて手段と目的が裏返ってしまった時、作品が空回りしてしまう。


本作での、人工物に包囲されすぎない、自然の息吹を感じ、そのサイクルと調和しながら生きることを求め、良しとする高畑さんの願いと思想自体を、僕は否定しない。
今に満足できず、見果てぬものを求め、或いはあったかもしれない「本当のこと」を過去に求めてしまう人間の業、そうした人の愚かさ儚さも含めて、丸ごと慈しみたいという願い、本作に込められたものも頭で追うことはできる。
しかし、それに命と重量感を与える、登場人物の感じる痛みや、熱さ、寒さ、生きて暮らしていくことの重みを、僕は今作の画面や物語から、残念ながら体感することが出来なかった。


例えば『赤毛のアン』では、100年前の原作者の現実の中で「当然すぎる前提」として端折られていた、プリンスエドワード島の四季の風景や、自然のサイクルの中で営まれる日々の労働の様子が、丁寧に描かれていた。それが、特別なメッセージなどなくとも、自然と信仰の中で、質実で静かな日々を生きる人々の美徳を体現していた(一方そこには、それを破壊し、バラバラにしてしまう程大きくはないが、田舎の閉じた閉塞感を開く光としての、近代の風の魅力までも、正直に描かれていた)。


例えば『母をたずねて三千里』では、ゴミあさりをして日々の糧を繋ぐインディオの少年パブロが、貧しさゆえに医者から門前払いを食い死に貧していた彼の妹フアナを、旅費を抛って救ったマルコに報いるために、彼を貨車に忍び込ませ、自分は囮となって駅員から棍棒で殴られる様子を、子供たちに向けて容赦なく、生々しく描いた。そこには、貧しさの中でも確かに手応えのある、人の出会いと別れがあった。


しかし、『かぐや姫の物語』で描かれた自然の中の暮らしに、そうした温度や、生活感と結びついた生々しい量感を、凝ったディティールや考証にも拘わらず、僕は感じることが出来なかった。竹取や山の子供たちに、痛みと不可分の生の手応えを感じることができなかった。


こうの史代さんは、『熱風』に寄せられた文章で、はっきりと背景を描き過ぎないことによって、時と場所が特定されすぎず、自然に人物に入り込めたと書かれていたが、僕は逆に、例えば『三千里』の、古い高層建築の間にたなびく洗濯もののような、綿密な背景から浮かび上がり体感される、生活感にはとても及ばないと感じた。


あるいは、そうした生々しい痛みや貧しさから遠い、現代人の隠喩として、ドギツい描写から遠ざかって、かぐや姫の渇望や悩みををもっと抽象的なものとして描きたかったのかもしれない。
しかし、では野山での子供時代の暮らしと、都での堅苦しい街暮らしの対比は何だったのか。前者が、あまりにも淡く楽天的だったのと同様、後者も(求婚エピソードなども含め)コミカルにあっさりと過ぎて行き過ぎて、かぐや姫の拒否や嘆きが唐突で大袈裟なものとして浮かび上がってしまっているように感じた。
同様に、かぐや姫の無邪気な躍動や飛翔シーンも、どこか取って付けた空騒ぎのように感じられてしまった。
ペッピーノ一座やパブロ、マシュウやマリラやリンド夫人のような、暮らしを持って生きる人間の細かな性格や手ざわりの魅力を、本作の登場人物の誰からも、僕は感じることが出来なかった(唯一挙げるとすれば、既に妻や家族を持った幼なじみの捨丸兄ちゃんが、かぐや姫と再開した途端2人で逃げようと言い出し、その後すべては夢だと悟ると、何事もなかったようにあっさりと家族のもとに戻っていく描写に、高畑さんらしい、人間を見る視線の懐の深さを感じたくらいか)。


人の世の無情も無常も、その中にもある人の一瞬の生の輝きや幸福も、旅の途中でマルコが出会う、その後も必ずしも幸福ではないだろう人々の有り様、生き様や、掛け替えのないマシュウの死の喪失感や、マリラと共に敢えて限られた未来を選ぶアンの幸福観から、充分に受け取らせて貰っていた。
長い時間をかけてキャラクターを描き込んで行けるテレビシリーズと、1本の映画を比較することはフェアでないかもしれないけれど、かつての高畑作品のファンとして、そしてずっと彼の新作を熱望していた者として、今作に物足りなさが残るというのは、どうしようもなく正直なところだ。


最後にあの、人物と背景が水彩画のように溶け合う手法について。
僕は、違和感を感じたというよりも、すぐに慣れて当たり前になってしまったというのが実感。
最初の特報で観た、スケッチのような描線が荒々しく躍動する、かぐや姫の疾走のインパクトに、期待が膨らみすぎていたのかもしれない。
かぐや姫を、感情移入可能な生々しい人間として描くことに、必ずしも成功しているとは自分は感じられなかったので、いっそサイレントの短編イメージ映像のようあスピード観で纏めてくれた方が、手法が生きた気がする。


かぐや姫の物語』特報
http://www.youtube.com/watch?v=TKbXE-UhW1I

『風立ちぬ』宮崎駿


予告編で描かれていた、地面が波打ち唸り声をあげるような関東大震災、昭和恐慌の取り付け騒ぎで銀行に群がる群衆たちの描写(そして、これも予告テロップとして流れた「苦難の時代を、当時の若者はどう生きたか」の言葉)などを観て、これは零戦に象徴される、貧しい後発帝国主義国家の栄光と悲惨を描いた、昭和版『坂の上の雲』かプロジェクトXのような映画じゃないかと、勝手に期待していた。


しかし、本編はそれとはまったく違った映画だった。
最近の宮崎駿の数作同様、物語としてのタイトな纏まりはほぼ放棄。主人公の幻想含めた、シーンの断片の緩やかな連続として語られるのは、「飛行機」という美と夢に憑かれたひとりの人間を、ひたすら追った物語だった。
堀越二郎という、当時のブルジョア子弟にして大エリートを主人公とする以上、そこに昭和の庶民一般の暮らしと歴史を仮託するのは無理筋だと覚悟はしていたけれど、それにしても震災も恐慌も、あの戦争さえ、敢えて遠い後景のように扱われていることに、拍子抜けしたような違和感があった。
あの軽井沢の夏のシーンの浮き世離れぶりなども含め、多くの論者が語るように、これはやはりブルジョア子弟にして、スーパークリエイターである宮崎駿自身が、今までにない正直さで、確信犯的に己を重ねたものだろうと、自分にも感ぜられた。


取り囲む時代状況との葛藤を、敢えて後景として静かにやり過ごすように進む物語の中、もう一方の大きなエピソードである恋愛も、主人公に大きな葛藤をもたらさない。
ヒロインは、病身でありながらサナトリウムをひとり抜け出し、主人公の元に走るような、意思的でアクティブなブルジョア令嬢として描かれているが、彼女の背負う「不治の病」という宿命が、逆に免罪符のように、家同士の結婚が当たり前だった当時としては考えられない程、恋愛成就のハードルを低くしている。
「野菊のような民さん」のように柵の前で弱く可憐であれ、などとは言わないけれど、やはりここも一般的な昭和の年代記とはあまりにも遠い。
そして、「限られた時間を、潔く、精一杯生きる」というレトリックによって、すべては「切なく、美しく」官能に飲み込まれてしまう。(あまつさえ、淋しがる彼女の傍らで図面を引きながら、煙草まで吹かしてしまう描写の潔さ!?には、正直、圧倒され言葉を失ってしまった)


では、期待と大きく違っていたこの映画を、自分が否定的に捉えているかというと、必ずしもそうではない。
「美しさ」だけではなく、一方で「正しい生き方」にも、一過言あったどころではない、ある意味そちらでも、一生かけて綺麗事に踏ん張り続けてき宮崎駿が、(譬え痛みや諦念を後景に感じさせる描き方であったにせよ)美しさを追う個的なアーティストエゴと、浮き世離れしたエリート性の方に、とことん正直に振り抜いた映画を作ったことに、驚きと不思議な感銘を禁じ得ない。
露悪的な居直りといった風は微塵もなく、あくまで今までどおりの美しい外見を貫いて、静かに差し出されるだけに、ショックはより深く複雑になる。


ただ、やはりこれは、あくまで選ばれたエリートの物語だ。
この映画のエゴを偉そうに糾弾できるほど立派な生き方などこちらもしていないが、ここまでまっしぐらに邁進するエゴの対象も、その才能も持たない(またおそらく、何よりも強く求めてもいない)自分は、作品と自分との(半ば置いてけぼりをくったような)距離の自覚を大切にしたい。
少し強い言葉で言えば、きいたような理解や共感を、容易く口にしたくない。
だから、天才の美しき業の告白を遠目に眺めつつ、貧しい元零戦乗りの息子、松本零士メカフェチ、アルチザンシップ礼賛、美女への憧憬と二人は相似形に見えるけど、やはり生まれ育ちが落とす影の違いは大きい)の描いた『戦場まんがシリーズ』の、前線の貧乏人たちの栄光と悲惨に向き合い、心のバランスを取りたいような気持ちにもなっている。

オグラ『次の迷路へ』 覚え書き

 オグラ『次の迷路へ』



人が、出来て当たり前のことができない。
皆んなが、当たり前に我慢していることが辛抱できない。
自分が文章を書き始めたのは、そうした苦痛や後ろめたさを、どう周りに対して言い訳し、共感ないし同情をしてもらうか、あるいは、できない自分の恥ずかしさに、どうリクツや理由を与えて慰めるか、安定した納得を得るかという動機が、まずあったように思う。


皆んなが日常的、常識的に当たり前にこなせていることを、苦手ながらも僅かでもクリアするために努力するのでなく、出来ないでいる苦痛や恥ずかしさを、何とか誤魔化して自他を説得したり、言い訳したり慰めたりしようとする。
そんな後ろ向きな姿勢が根本にあるから、意識、無意識にかかわらず、いつもどこかでそれを恥じている。
世間の基準点をクリアした上で、誰かを楽しませるというプラスの発想や能力からスタートしておらず、そこに自信を持っていないから、どこかで延々、書くことやそれを中心にした生き方が、自分の言い訳に閉じ、終始している気がしてしまう。


こうして一見、自分の現実と殊勝に向き合ったことを書いているように見えても、多くの場合それは、現実を乗り越えるためではなく、黙ってただ遠ざかっているプレッシャーに耐えられずに、取り敢えず現実を意識する痛みによって「自分はちゃんと見てはいる、わかっている」と、変わらない(変われない)自分を慰め、外に対してもポーズを取ってみているだけだ。
その証拠に、誰かから「出来ない」ことそのものを責められたりすると、(外に出すかどうかは別にしても内心)ムキになって逆上したりもする。
苦手なことで自分が計られるのが嫌なばかりに、頼みの綱の表現の価値に固執し、その意義付けに必死になる。
そうして余裕なく身構えているうちに、他者の表現に対しても、そうした切実な恥ずかしさから遠いものに、心の針が振れにくくなってしまう(半面、ツボにはまったものには、極端に針が触れる)。
オグラさんの歌にも、僕はそのようにして出逢った。


「何を表現するか」だけでなく、「どう表現するか」に大きな関心と才能を持ち、時として薄暗くなりがちなテーマを、美しいテンポや、奇抜な比喩に昇華して届ける力を持つオグラさんの歌を、動機や内容だけで語るのは明らかに片手落ちだけれども、どうしてもオグラさんの歌でなければならないというこちらの大きな動機は、間違いなくそこにあった。


自分の力や条件に余るものを望み、望んでいるだけの自分と結果の卑小さに落ち込み、韜晦する。
生きていると(場合により人によりだけれど)、自分の許容量を超えた苦痛や不快に耐えなければならないということに、出会うこともあるけれど、それをうまく割り切り、諦め、受け入れることができない。
現実に直にぶつかって擦り切れてしまうことを恐れながら、逃げ遠ざかりきる甲斐性もない。


(自分にとって)許容量を超えた現実というのは、どう表現に昇華しようとしても、洒落にも慰安にもなりにくい。
自分のコンプレックスを「それもアリ」と受け入れてくれる、優しさを他人や世の中に求めすぎたり、求められないとニヒルになりすぎたり、といった揺れを繰り返すのは恥ずかしいけれど、無理にクールに突き放そうとすると、実際の自分の心との間のすきま風が薄ら寒い。
かと言って、辛さにまともに向き合うだけでは、受け手も送り手も暗くなる。
だからたいていの場合、人は「できること」をやろうとする。
それ自体は、正しい判断だと思う。


けれどそうした、本当に切実で気の滅入る、他人と共有することが面倒臭く恥ずかしい現実、そして迷いと逡巡を、何とかして引き受けてくれる表現が、どこかにあって欲しい。
頼りない気持ちを手放さず、引き受ける(力を持つ)人に、居て欲しい。
手に余る現実を前に、何とか付かず離れず時間稼ぎするように、(抱えてしまうものの重さゆえに)切実な軽さへの志向と、止むことのない逡巡との間を揺れ続けるオグラさんの歌を、僕はかけがえなく思う。


こうした思いは、本当は自分達のようにコンプレックスからスタートし、固執するタイプの人間だけの意識ではなく、ある程度年輪を重ねて大人になれば、そうした蹉跌は多くの人が抱え込む(そして、必死に慣れて、呑み込んでいる)ものだとも思う。
だから、僕のここまでの書き方は、自分固有のコンプレックスに関してナルシズムが過剰な物言いになってしまっているかもしれない。
特にソロになってからのオグラさんは、才気走った人特有の早熟なナイーブさを恥じながら、演奏やレコーディングを始め、ブッキングや宣伝など、活動のための雑事をなるべく他人に頼らず、(彼なりに)積極的に自分でこなしていく覚悟と努力を重ねていくことで、日々少しずつタフになり、また「普通の人を支えている営為」を、旅するように少しずつ勉強しているようにも見えていた。
タフになり、軽くなろうとすることで、自分を縛っているこだわりや、そこに付随する後ろめたさに拘泥しすぎることから、自由になろうとしている。
けれど、そうして一心に厄介な自分から遠去かろうとしても、どうしても染み付いた、自分の感じ方の癖のようなものは残ってしまう。
それは厄介ではあるけれど、取り留めなく広がる現実の中で、自分の取るべき方向を決め、支えていく心棒にもなっている。
この矛盾を、丁寧に揺れ続ける微妙な緊張感が、極端なコンプレックスを持つわけではなくても、多かれ少なかれ自分を持て余し、あるいは世間に翻弄され見失いそうになりながら生きている多くの人に、すっと自然に届いていくだろう、今のオグラさんの歌の大きな魅力になっている。
そしてそれは同時に、不安や心細さで一杯で、楽しい表現も哀しい表現も共に受け入れる余裕を持ちにくい、現在の自分のような人間の気持ちも、極力柔らかく包んでくれる。


どうも、いつも以上に自分の心象に引きつけ過ぎた書き方になり、せっかく広がっているオグラさんの間口を狭めてしまっているかもしれないが、常に十全では有り得ないことを引き受けながら揺れ続け、繊細さを保つ余裕を持ちこたえていこうと努力する、今のオグラさんの魅力が全編に行き渡った、彼のこれまでの作品の中でも最も優しく、柔らかく、強いアルバムだと思う。

次の迷路へ [MWR-002]

次の迷路へ [MWR-002]

ちょっとジェスロ・タルみたいなジャケが目印。


この2曲は本当にAMラジオ向きだと思う。小沢昭一さんや永六輔さん、蝮ちゃんの番組の前後なんかに流れて欲しい。大沢悠里さんもよろしくお願いします。

『For Everyman/フォーエブリマン vol.1』店頭販売開始


誌面詳細はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20111023

11月より、下記の店舗で発売中です。


神田神保町
東京堂書店 1F一般書フロア
http://www.tokyodoshoten.co.jp/


三省堂本店 4Fリトルマガジンコーナー
http://www.books-sanseido.co.jp/shop/kanda.html


高田馬場
芳林堂書店 3F映画書籍コーナー
http://www.horindo.co.jp/takadanobaba/index.html


下北沢
古書ビビビ
http://www6.kiwi-us.com/~cutbaba/


中野
タコシェ(通販あり)
http://tacoche.com/


阿佐ヶ谷
ラピュタ阿佐ヶ谷
http://www.laputa-jp.com/


古書コンコ堂
http://konkodo.com/


西荻窪
古書音羽館
http://p.tl/LWrC


吉祥寺
ジュンク堂書店吉祥寺店(リトルマガンジンコーナー及び映画書コーナー)
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/shop-kichijoji.html


バサラブックス
http://basarabook.blog.shinobi.jp/


すうさい堂
http://suicidou.blog.shinobi.jp/


トムズボックス
http://www.tomsbox.co.jp/


高円寺
ハチマクラ
http://hachimakura.com/


ペリカン時代
http://ameblo.jp/masume55/


古本酒場コクテイル
http://koenji-cocktail.com/


池袋
古書往来座
http://www.kosho.ne.jp/~ouraiza/ 


京都
恵文社一乗寺店(通販あり) 
http://www.keibunsha-books.com/


ガケ書房(通販あり)
http://www.h7.dion.ne.jp/~gakegake/index.htm


名古屋
ちくさ正文館書店
http://www9.ocn.ne.jp/~chikusas/


倉敷
蟲文庫
http://homepage3.nifty.com/mushi-b/


仙台 
book cafe 火星の庭
http://www.kaseinoniwa.com/


webショップetc
トマソン
http://tomasonsha.com/


※取り扱い店舗募集中。
随時、こちらをチェックお願いします。

オフィシャルブログ開設に併せ、通販も開始します。
もうしばらくお待ちください。


池袋新文芸坐「女優 高峰秀子映画祭」にて、『For Everyman/フォーエブリマンvol.1』販売しております。
http://www.shin-bungeiza.com/schedule.html#d1201
日本映画専門チャンネル高峰秀子特集では漏れていた、『二十四の瞳』『遠い雲』『笛吹川』など木下恵介作品も上映。
この機会に、スクリーンで是非。

『For Everyman/フォーエブリマン』創刊記念トークショー開催します。

bakuhatugoro2011-11-03

『For Everyman/フォーエブリマン』創刊記念トークショー


11月6日(日)18時〜
高円寺ハチマクラ 奥ギャラリー
出演:河田拓也(本誌編集長) 荻原魚雷 TAIZAN(イラストレーター) 
ミニLIVE オグラ

1000円(1ドリンク付)

 
※予約、問い合わせは電話かメールでハチマクラまで。
http://hachimakura.com/index.php


友人夫妻の営む、高円寺の紙モノ、雑貨を扱うお店ハチマクラの奥ギャラリーで、『For
Everyman/フォーエブリマン』創刊記念のトークショーを行うことになりました。
http://hachimakura.com/
ゲストは、本誌でも対談していただいた荻原魚雷さん。
http://gyorai.blogspot.com/
3年越しの創刊の経緯や、旧作邦画の並んだ一見ややマニアックな誌面に込めた現在の自分の意図と関心などを、「高円寺文壇再結成対談」の延長のようなノリで、なるべくくだけてお話できればと思っています。


そしてもう一人のゲスト、手廻しオルガンミュージシャンオグラさんに、ミニライブをお願いしています。
オグラさんは魚雷氏同様、僕が高円寺に住んでいた頃からの10年来の友だちですが、実はそれよりずっと前、青ジャージ、800ランプといったバンドで活動していた頃、一観客として見て打ちのめされた、正真正銘の才人です。
こういう喩え方は真にオリジナルなシンガーであるオグラさんに失礼かもしれませんが、友部正人のような比喩に富んだ詩世界を、更に繊細に、激情を込めて、しかもシャンソンともフォークとも歌謡曲ともつかない自在なスタイルで唱う、唯一無二のアーティストです。
はじめて彼を見たときは「こんなに才気走った人は、きっとボブ・ディランジム・モリスンのような嫌なヤツに違いない」と思い込み、声などとてもかけられませんでした。
けれど今、彼が歌っている歌には、当時感じた才気と情熱のスケールを更に増しつつ、それを当たり前に市井を生きる人間の一人として隣人達にサービスする、上質な歌謡曲と呼びたくなる大きさと、包容力を感じます。
僕が言っていることが大袈裟でないことを、直に聴いてくださった方にはきっと分かっていただけると思います。


中でも、来春発表されるニューアルバムに収録予定の『あなたの暗闇』で歌われている世界は、僕が『For Everyman』で目指したいものと大きく重なります。
http://www.majix.jp/artist_content/90 (こちらのダウンロードサイトに、押しかけで推薦文を寄せています)
僕らの対談はともかく(というと、せっかく駆けつけてくれる魚雷氏に失礼ですが)、彼の歌がもっと広く、多くの人に届くことを心から願います。

オグラBOX 3枚組

オグラBOX 3枚組

『For Everyman』創刊記念トークショー 

11.6(日)高円寺ハチマクラ(奥ギャラリー) 
出演 河田拓也(本誌編集長) 荻原魚雷 ゲスト オグラ(歌) 
夕方6時スタート 1ドリンク付1000円 
問い合わせ03-6312-8739(ハチマクラ)
http://hachimakura.com/



 

新雑誌『For Everyman/フォーエブリマン』創刊


3年越しで構想してきた雑誌の第1号が、ようやく刊行の運びとなりました。
創刊号は、旧作日本映画を紹介する特集が並びましたが、今後の号では、文学や音楽、マンガetc…といったジャンルの作家、作品が誌面の中心になることも、また、僕たちの暮らしそのものの中にテーマを見つけて特集していきたいとも思っています。
『For Everyman』は、広義の文学を軸とした、総合誌を目指します。


一人一人の暮し方や、文化的な消費嗜好が一見バラバラに多様化し、インターネットの普及で各々が自分の見たいもの、知りたいものだけを能動的に選べるようになったここ10数年。雑誌などの活字メディアも、各々の嗜好に合わせたマニアックな考察やカタログ誌的な方向(あるいは、自分達の小さな世界の心地よさだけを、まっすぐに求める姿勢)へと、舵を切ってきました。


また、それに対する反動のように、批評や報道の世界では、各々が暮らしを体感し合う場を持たないまま、他者の存在を書き割りのように把握し、世の中を構造的、合理的に裁断していくような言葉が、寄る辺のない個人を脅かしているような状況もあります。


個別の事象に対して深く掘り下げることも、また、現実を俯瞰して地図を書いたり、大きな方向を模索することも、共に大切なことだと思います。
ただ、現実を生きる僕たちは、蛸壺のような世界に閉じこもりきることも、或いは、現実のすべてを把握し、定見を持つこともできません。
そして、現在の言論の状況を見渡すと、各々が自分の世界認識の広さ、完全さを言い張る競争自体が目的化してしまっていたり、それから逃れるように、趣味嗜好の世界にのみ閉じこもってしまうことが、あまりにも多くはないでしょうか。


今、必要なのは、世界を俯瞰、把握などしきれない自分たちを認識した上で、どんな生き方が可能か、何を幸福と考えるのかという問いに、静かに向き合っていくことだと考えます。
とはいえ、僕たちは一つの安定した価値観だけを信じ、生きていくには、あまりにも流動的、抽象的に拡大した世界を生きています。そこに向き合い、どう生き延びていくかを考えないわけにはいきません。
しかし同時に、常に動静を把握し続けることばかりに汲々とし、急な流れのままに生き方を変え続けていくことも、現実を生きる人間にとっては、辛く非現実的なことではないでしょうか。
人は、どんなふうにでも生きられるわけではない。けれど、ただ中空に個人として生きているわけでもない。
取り囲む現実が流動的で、一人一人が生きるよすがを見い出しにくい現在、ただ人を先へ先へと煽り、脅かすのでなく、いかに少しでも確かな生き方や繋がりを築いていけるか。


例えば、誌面に並ぶ記事の内容を、各々がすべて理解できなくても良い。
世界観の完成を性急に目指さず、各々が緩やかに影響し合いながら、常に試行錯誤がなされている状態(そしてその速度が、個々の人々の暮らしを、追い立てすぎない状態)を、理想としたいと思います。
意識するのが辛いこと、言いにくいこと=切実なことほど、努めて柔らかい姿勢で、しかしなるべく逃げず、恥ずかしがらずにゆっくり考える。
個々の現場、現実の深さを安易に整理することなく、世界の繋がりや広がりを少しだけ感じながら、各々のスピードで、じっくりと自分の生き方、暮し方を思い、考えていけるような誌面を、本誌は目指して行きたいと思います。

For Everyman/フォーエブリマン vol.1

特集1 「いま、木下恵介が復活する」山田太一×原恵一 4万字超ロング対談 
「日本の社会はある時期から、木下作品を自然に受け止めることができにくい世界に入ってしまったのではないでしょうか。しかし、人間の弱さ、その弱さが持つ美しさ、運命や宿命への畏怖、社会の理不尽に対する怒り、そうしたものに対していつまでも日本人が無関心でいられるはずがありません。ある時、木下作品の一作一作がみるみる燦然と輝きはじめ、今まで目を向けてこなかったことを多くの人がいぶかしむような時代がきっとまた来るように思います」山田太一『弔辞』より
震災を経験し、バラバラな個人が貧困の影に怯えるいま、「近代個人の淋しさを人々に味あわせるに忍びない感受性を持ちつつ、自身はその孤独を敢えて引き受けて明晰な個人であろうとした」通俗を恐れない巨匠が、最良の後継者お二人の語りの中に蘇る。


特集2 大映「悪名」「犬」シリーズ再見&藤本義一ロングインタビュー 
「現実を安易に楽観せず、だからこそ否定面を大げさに嘆くほど呑気でもない」「苦しみ、哀しみを受け止めながら剥き出しにしすぎない、隣人への節度と労り」娯楽映画の安定感について。
今東光勝新太郎田宮二郎、そしてアルチザン魂を語る。(取材・構成 奈落一騎)他


未公開シナリオ『六連発愚連隊』全掲載&追悼高田純 
仁義なき戦い』と『ガキ帝国』を、結ぶミッシングリンク
「人や社会の汚れを認めず、否定すればするほど、極道は減ったかわりに、カタギ外道が増えてはいませんか?」
ピラニア軍団松田優作泉谷しげるらの熱き連帯。そして、笠原和夫の「100箇所の付箋」。


●『本と怠け者』&『For Everyman』ダブル刊行記念 荻原魚雷×河田拓也「高円寺文壇 再結成対談」
「誰もが明るく生きられるわけじゃないし、苦しく考えながら生きざるを得ない人生もある。地味な文学者たちに、そんな勇気と居直りを貰った」
下積み経験と、文学遍歴を語り合う。


書評 
山田太一空也上人がいた』  河田拓也
竹中労『聞書 庶民列伝 上』  佐藤賢
古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』 渡辺真吾
『脚本家白坂依志夫の世界』 松本るきつら
高野真之BLOOD ALONE』 たかやまひろふみ


エッセイ
追悼 出崎統  松本るきつら
「祭ばやしが聞こえない 〜関東甲信越小さな旅打ち〜」  天野剛志


『For Everyman』発刊の言葉に替えて
ジャクソン・ブラウン&デヴィッド・リンドレー『LOVE IS STRANGE』について 河田拓也


表紙イラスト TAIZAN
http://www.facebook.com/pages/%E6%B3%B0%E5%B1%B1TAIZAN/154855114587879
写真 藤井豊(岩手県普代村堤防 4月撮影)
A5版 240ページ 1000円(税込)

18日から31日まで、京都のガケ書房恵文社一乗寺で開催中の「きょうと小冊子セッション」http://gakeibunsha.jpn.org/?p=77
及び、神保町東京堂書店1F一般書コーナー、3Fリトルマガジンコーナーにて先行販売しています。
その他、取扱店については、オフィシャルブログ開設までの間、当ブログと河田のツイッターにて、順次お知らせ致します。
信販売については、ブログ開設までしばらくお待ちください。